夜の魔王
眠れない夜だった。
寝台の上で何度も寝返りを打ち、目を閉じてもまぶたの裏に数字が浮かぶ。七名の怪我人。行方不明の子供。壊滅した村。母親の失われた腕。
自分のせいかもしれない。自分のせいではないかもしれない。
どちらにしても、答えは出ない。
リーリエは寝台を出た。薄い部屋着のまま、廊下に出る。裸足の足裏に石の冷たさが伝わる。冬の気配が忍び寄っている。カインが「夜は冷えるから上着を」と言っていたのを思い出したが、取りに戻る気にならなかった。
目的地はなかった。ただ歩きたかった。頭の中の声を、足音で紛らわせたかった。
石の廊下を歩く。月明かりが窓から差し込み、床に格子模様の影を落としている。魔王城は夜、不思議なほど静かだ。昼間はフィルの笑い声やリュカの騒がしい声で満ちているのに、夜はまるで別の世界のようになる。時間が止まったような、深い沈黙。
この沈黙の中を、カインは五百年間歩いてきたのだろうか。
気づくと、あの廊下に出ていた。
封じられた部屋がある廊下。城の奥まった場所。他の部屋からは離れていて、普段は誰も近づかない。リーリエは以前にも一度、この場所を通りかかったことがあった。重い扉に鍵がかかっていて、中には誰も入れないとヴェルナーが言っていた。「旦那様以外は」と。
廊下の先に——人影があった。
カインだった。
封じられた部屋の前に立っていた。この廊下だけ空気が違う。埃と古い金属の匂いがして、温度が数度低い。時間が凍りついたような静けさだった。扉に片手を当て、目を閉じている。
リーリエは足を止めた。石の壁の陰に身を潜め、息を殺した。
月明かりの中に浮かぶカインの横顔は——苦しそうだった。
いつもの無表情ではなかった。深紅の瞳は閉じられ、眉間に深い皺が刻まれている。扉に当てた手が震えている。唇が微かに動いていた。何かを呟いている——けれど声は聞こえない。
祈りのようにも見えた。懺悔のようにも見えた。扉の向こうに誰かがいて、その相手に話しかけているようにも。五百年分の時間が、この一つの扉の前に凝縮されているような——そんな重さがあった。
リーリエは物陰から動けなかった。
声をかけるべきだろうか。「大丈夫ですか」と。「眠れないのですか」と。
けれど——かけてはいけない気がした。
これはカインが一人で向き合うべきものだ。リーリエが入り込む場所ではない。あの扉の向こうにあるものが何であれ——カインの痛みの源が何であれ——今のリーリエには触れる資格がない。
そう思った。資格という言葉が浮かんだことに、少し驚いた。「資格」を気にするということは——いつか触れたいと思っているということだろうか。
同時に、胸の奥が締めつけられた。
あの人にも——私と同じような痛みがある。
リーリエは教会で痛みを抱えていた。身体の灼熱。孤独。無関心に晒される苦痛。それは誰にも理解されなかった。誰も聞いてくれなかった。「聖女の使命」の一言で、全てが片づけられた。
カインの痛みは、何だろう。五百年という時間の重さを、リーリエは想像すらできない。一年の苦痛でさえ感情を凍らせるに十分だったのに、その五百倍。気が遠くなるほどの孤独の中で、この人は折れずにいた。
五百年の孤独。初代聖騎士の伝承。封じられた部屋。名前を呼ぶときの一瞬の間。リーリエの中に別の人の面影を探してしまう苦しみ。
全てが繋がっているのだろう。全てが一つの痛みに集約されているのだろう。けれどリーリエにはまだ、その全容は見えない。
カインの唇が動いた。今度は——声が微かに聞こえた。
「……すまない」
一言だけ。擦り切れた声だった。何百回、何千回と同じ言葉を繰り返してきたような——使い古されたけれど、決して軽くならない言葉。
誰に向けた言葉だったのか。扉の向こうの「誰か」に向けたのか。自分自身に向けたのか。
カインが目を開けた。深紅の瞳が月明かりに照らされ、暗い赤に光った。扉から手を離した。手のひらの跡が、冷たい金属の上にほんの一瞬だけ残っているように見えた。
背を向けた。廊下の松明が壁に橙色の光を揺らし、カインの影が長く伸びている。長い外套の裾が石の床を擦った。足音が廊下に反響する。重い足音。五百年分の重さを背負った足音。
リーリエは息を殺した。見つかりたくなかった。今この姿を見ていたと知られたくなかった。カインの痛みを覗き見たことが、後ろめたかった。
カインが廊下の反対側に歩いていった。足音が遠ざかり、曲がり角を過ぎ、やがて聞こえなくなった。
一人残されたリーリエは、物陰から出た。
封じられた扉の前に立った。冷たい金属の扉。月明かりが鈍く反射している。鍵穴は見えない。魔術で封じられているのだろう。
掌を扉に当てた。冷たかった。金属の扉は夜の冷気を吸い込んで、氷のようだ。けれどカインが触れていた場所は——ほんの僅かに、温かかった。体温の残り。五百年分の体温の残り。この扉に何度触れてきたのだろう。何度「すまない」と呟いてきたのだろう。
廊下を戻りながら、リーリエは考えた。
自分の痛みばかりを考えていた。教会の苦痛、結界の重み、死にたいという願い。自分の内側しか見えていなかった。
あの人にも痛みがある。五百年分の。リーリエには想像もつかない重さの。
それでもあの人は毎朝、花茶を淹れてくれる。「大したことはない」と嘘をつく。「お前は誰のものでもない」と言う。
自分の痛みを抱えながら、リーリエの痛みも背負おうとしている。
「……変な人」
三度目のその言葉は、前よりも柔らかかった。
自室に戻り、寝台に横になった。まだ眠れない。けれど——さっきまでとは違う理由で。
カインの「すまない」が、耳から離れなかった。
擦り切れた声。何百回も繰り返してきた言葉。それでも——毎回、同じ重さで口にしている。軽くなることを自分に許していない。五百年間、一度も。
リーリエは枕に顔を埋めた。痛みは相変わらずだ。胸の紋章が微かに疼き、結界に命を送り続けている。けれど今夜の痛みの中には、カインの痛みの影が重なっていた。自分だけが苦しいのではない。この城の主もまた——五百年分の「すまない」を抱えて、眠れない夜を過ごしている。
その事実が、不思議と——痛みを少しだけ和らげた。枕が温かい。涙で濡れた痕が、ゆっくりと乾いていく。




