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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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リーリエの罪悪感

 リーリエは報告書を見つけた。


 午後の書庫は静かだった。暖炉の火がちりちりと燃え、窓から差す光が古い革の背表紙を金色に照らしている。紙とインクの匂いに混じって、微かに蝋の匂いがする。昨夜、誰かが遅くまでここで作業をしていた証拠だ。


 書庫の机の上に、ヴェルナーがまとめた各地の異変の報告が置かれていた。本来は執務室にあるべきものだ。ヴェルナーが持ち出して分析途中で置き忘れたのだろう。几帳面な彼が書類を放置するのは珍しい。それだけ余裕がないのかもしれない。


 読むべきではないと思った。カインとヴェルナーが自分の前で話さなかった内容が、ここに書かれている可能性がある。


 けれど手が勝手にページをめくっていた。


 北方の村——魔物の群れに襲われ、怪我人七名。うち二名が重傷。子供を庇った母親が腕を失った。


 東部の農地——原因不明の土壌汚染。収穫の半分が駄目になった。冬を越せるかどうかの瀬戸際。


 南の漁村——季節外れの嵐で家屋が倒壊。子供が一人、行方不明。捜索は続いているが、希望は薄い。


 リーリエの手が止まった。


 子供が一人、行方不明。


 フィルの笑顔が浮かんだ。「お姉ちゃん!」と駆け寄ってくる金色の目。小さな角。柔らかい手。


 あの子と同じくらいの年の子供が——嵐に攫われた。


 報告書を閉じた。羊皮紙の端が乾いた音を立てて合わさった。指先が微かに震えていた。指先だけではない。胸の奥で、紋章が疼いている。結界との繋がりが引っ張られるような感覚。世界のどこかで結界が薄くなるたびに、リーリエの身体から力が引き出される。その力が足りなくなっている。


「これは……私がここにいるから、起きていることなのだろうか」


 根拠はない。結界の弱体化と自分の不在が関係しているとは、誰も直接には言っていない。カインもヴェルナーも、リーリエの前では原因を語らなかった。


 けれど胸の紋章が疼いている。指先に灯る光。結界との繋がり。聖女の力は結界を維持するためのもの。聖女が結界の傍にいなければ——結界が弱まるのは、当然のことではないのか。


「リーリエ様」


 マリカが書庫に入ってきた。お茶を持ってきたのだろう。銀の盆の上にカップが一つ。けれどリーリエの表情を見て、盆を机に置き、膝をついた。


「何か、ありましたか」


「……マリカ」


「はい」


「世界で、人が苦しんでいます」


 マリカの目が揺れた。


「もし私がその原因だとしたら」


「リーリエ様——」


「私がここにいるせいで、結界が弱まって、人が傷ついているのだとしたら。子供が行方不明になっているのだとしたら」


 マリカの顔が蒼白になった。


「あなたのせいではありません! そんなこと——」


「でも、私が戻れば——」


「戻ってはいけません!」


 マリカの声が、書庫に響いた。天井まで届く本棚の間に声が反響し、静寂を切り裂くように広がった。窓の外は曇り空で、書庫の中は灰色の光に沈んでいる。暖炉の薪がぱちりと爆ぜ、橙色の火花が一つ飛んだ。


 驚くほど強い声だった。穏やかなマリカが、声を荒げた。本人も自分の声の大きさに驚いたのか、口を押さえた。目が大きく見開かれている。


「……す、すみません。大きな声を……」


「いいえ。大丈夫です」


「けれど……リーリエ様。戻っては——」


 マリカの目に涙が浮かんでいた。涙が頬を伝い、顎から滴り落ちる。拭おうともせず、リーリエを見ている。


「あなたがここに来てから、この城は変わりました」


 マリカの声が震えていた。涙を拭おうともせず、言葉を紡ぎ続けている。


「旦那様が笑うようになりました。苦笑ですけれど、それでも。リュカが張り切るようになりました。『お嬢のために腕を振るうっす』って毎日言っています。フィルが毎日お姉ちゃんと遊べて嬉しいと言っています。ヴェルナーさんだって、本を共有できる方ができたと喜んでいました。それから——」


「マリカ」


「私も。私も嬉しかったのです。リーリエ様が来てくださって。この城に——家族が増えたみたいで」


 家族。その言葉が胸の中で反響した。マリカの涙が頬を伝うのを、リーリエはまっすぐ見つめていた。温かい涙だった。怒りでも悲しみでもない——ただ、失いたくないという切実さから溢れた涙。


 その言葉が、リーリエの胸に落ちた。


 教会では誰も泣かなかった。聖女がいなくなっても、次の聖女が来る。聖女は個人ではなく機能だ。機能が消えれば別の機能が補充される。泣く理由がない。


 けれどマリカは泣いている。リーリエという個人がいなくなることを、悲しんでいる。


「……ありがとうございます、マリカ」


「リーリエ様……」


「少し、一人で考えたいのです。お茶は——後でいただきますね」


 マリカの淹れた茶のカップが、机の上で湯気を立てている。花茶の甘い香りが書庫に漂い、古い紙の匂いと混ざり合っている。温かい匂い。生きている匂い。


 マリカが頷き、目元を拭いながら出ていった。足音が遠ざかり、書庫に静寂が戻った。


 一人になった書庫は、急に広くなったように感じた。リーリエは窓辺に移動した。マリカが置いていった茶のカップに手を伸ばしたが、持ち上げずにそのままにした。指先が震えていた。マリカの涙が目に焼きついている。あの人が泣いたのは、リーリエのためだ。リーリエという個人のために、涙を流した。教会では誰も泣かなかった。聖女が消えても機能が消えるだけで、個人は最初から存在しなかった。


 庭が見える。フィルが走り回っている。リュカが追いかけている。平和な午後の光景。


 天秤にかけている。自分でもわかっていた。


 一方の皿に——世界の人々。魔物に襲われた村人。嵐に巻き込まれた子供。枯れた作物。苦しんでいる人々。


 もう一方の皿に——ここにいたい、という気持ち。花の名前。星の名前。マリカの涙。


 聖女としての自分は知っている。自分が我慢すれば、みんなが助かる。教会に戻り、祭壇に座り、身体を灼かれながら結界を維持すれば——


 けれど。


 マリカが泣いている。


「……私は、こんなに迷うようになったのですね」


 以前なら迷わなかった。「どうでもいい」で全てが片付いた。天秤に載せるものが何もなかったから。


 今は、天秤の片方に——小さな、けれど確かなものが載っている。


 迷えること自体が——変化の証なのかもしれなかった。


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