遠い異変
報告が重なり始めたのは、戦いの後からだった。
秋がいよいよ深まり、窓から入る風が冷たくなった。書庫の暖炉に火が入るようになり、薪の爆ぜる音が静かな読書の伴奏になっている。
リーリエが静かな書庫で読書をしていると、ヴェルナーがカインの執務室に入っていく姿を見かけた。朝にも来ていた。昼にも来ていた。一日に何度も出入りしている。ヴェルナーの足音がいつもより速い。眼鏡の位置を直す仕草が増えている。あの人が眼鏡を何度も触るのは、落ち着かないときの癖だ。
リーリエはそういうことに気づくようになっていた。城の住人たちの癖。声の調子。歩く速さ。マリカが疲れているときの笑顔の硬さ。リュカが心配しているときの冗談の間隔。カインが嘘をつくときの視線の揺れ。以前は誰のことも見ていなかった。今は——見ている。見ずにはいられない。
それだけ、この城の人々がリーリエの世界に入り込んでいるということだった。
夕方、リーリエは執務室の前を通りかかった。扉越しに、ヴェルナーの声が聞こえた。
「東の森で魔物が増殖しています。数は先月の三倍以上。討伐隊を出した周辺の村からの報告では、負傷者が複数出ています」
「南方は」
「原因不明の嵐が頻発しています。季節外れの暴風雨で、漁村が二つ浸水被害を受けました。また、内陸部で作物が枯れ始めている村があります。土壌に異常はなく、水も汚染されていません。にもかかわらず、根が腐るのです。原因は特定できていません」
リーリエは足を止めた。廊下の壁に背を預け、耳を澄ませた。盗み聞きだとわかっている。けれど——足が動かなかった。
「明確なパターンがあります」
ヴェルナーの声が真剣だった。いつもの冷静な分析口調だが、その下に焦りが滲んでいる。
「東、南、北西——結界が薄い地点です。一つ一つは小さな異変ですが、分布を地図に落とすと明確なパターンが浮かびます。結界の綻びと、被害の発生地が一致している」
「結界が弱まっている」
カインの声は低く、沈んでいた。普段の淡々とした声とは違う。重い声だった。椅子の軋む音がした。カインが身を乗り出したのだろう。革の擦れる音。古い文献を広げる紙の音。
「はい。結界の弱体化としか説明がつきません。原因は——」
沈黙が落ちた。
リーリエは扉の前に立ったまま、息を止めていた。
結界の弱体化。原因。廊下の石壁が冷たく、背中に張りついた布が肌に重い。遠くで風が窓を叩く音がした。冬が近い。空気の中に、凍りかけた草の匂いが混じり始めていた。
カインとヴェルナーの間に、視線が走った。扉越しに見えるわけがない。けれどリーリエには——二人が「何か」を共有していて、それをリーリエの前では言えないのだとわかった。
カインが視線でヴェルナーを止めた。「ここでは言うな」と。なぜなら——リーリエがいるかもしれないから。
扉が開いた。
ヴェルナーが出てきて、リーリエと目が合った。一瞬だけ、ヴェルナーの目に動揺が走った。すぐに平静を取り戻したが、リーリエは見逃さなかった。
「……聖女殿。お散歩ですか」
ヴェルナーの声は平静だったが、眼鏡を直す指が微かに震えていた。リーリエがどこまで聞いていたか、測っているのだ。
「ええ。書庫に行く途中です」
嘘だった。書庫からの帰り道だ。けれどヴェルナーは追及しなかった。嘘だと気づいていただろうに。眼鏡を直し、「良い夜を」と言って去っていった。
リーリエは執務室に入った。蝋燭の蝋が溶けて燭台に白い涙を垂らしている。カインが机に向かっている。古文書が広げられていたが、文字を追っている目は——文字を見ていなかった。
「聞こえていたか」
カインが聞いた。
「少しだけ」
「どこまで」
「結界が弱まっている、というところまで」
カインが椅子の背に身を預けた。深紅の瞳が、リーリエを見つめている。何かを言いかけて——止めた。唇が動き、閉じた。
「心配するな。対処は考える」
その声は——重かった。「心配するな」と言いながら、カイン自身の目が最も心配に満ちていた。深紅の瞳の奥に、疲労と焦りが渦巻いている。何日も眠っていない顔だ。
「……はい」
リーリエは頷いた。カインの深紅の瞳に宿った疲労と焦りが、松明の光の中で揺れていた。何日も眠れていないのだろう。頬が僅かにこけ、目の下に影が落ちている。けれど部屋を出た後、廊下を歩きながら考えた。
結界の弱体化。各地の異変。
そして——自分の身体の異変。
最近、左胸の紋章が疼くことが増えた。以前は忘れているほど静かだった紋章が、微かな圧迫感を主張するようになった。結界を維持する力が、何かに引っ張られているような感覚。遠い場所から細い糸で引かれているような——
タイミングが、一致している。
結界が弱まり始めた時期と、紋章の疼きが増えた時期が。
リーリエは廊下の窓辺に立ち止まった。夜の庭が見える。月明かりの下で、花壇のエーデルフラウが白く浮かんでいる。
自分の手を見た。指先が——微かに光っていた。
銀白色の光。聖女の力の光。カインの傷を治したときと同じ光が、何もしていないのに指先に灯っている。
「……何なのですか、これは」
呟いた。
光はすぐに消えた。まるで何もなかったかのように。指先は普通の白い肌に戻っている。
結界の異変。身体の異変。この二つが繋がっているのかどうか、リーリエにはまだわからない。けれど教会で学んだ知識が、頭の隅で警告を発している。聖女は結界の媒介だ。結界が弱まるとき、聖女の身体に何が起きるか——教義書の片隅に記されていた一節を、今になって思い出した。
けれどカインは何かを知っている。ヴェルナーも。二人は「原因」を知っていて、リーリエの前では言えない。
それは——リーリエ自身に関することなのだろうか。
月が雲に隠れ、庭が闇に沈んだ。指先の光は戻らなかった。夜風が冷たい。冬の前触れの匂いがする。枯れ草と、凍りかけた土の匂い。
リーリエは自室に戻り、冷えた寝台に横になった。シーツが肌に冷たい。シーツが冷たかったが、マリカが入れてくれた湯たんぽが足元にあった。以前なら気にも留めなかっただろう。今は——その温もりに、少しだけ感謝している自分がいた。
目を閉じると、紋章が微かに疼いた。遠い場所で誰かが泣いているような——そんな感覚が、胸の奥を掠めて消えた。




