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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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魔王の傷

 異変に気づいたのは、偶然だった。


 夜の廊下は静かで、リーリエの足音だけが石の床に響いていた。窓から差す月明かりが青白い帯を作り、その中を歩くと足元が微かに光る。図書館の本を返す、ただそれだけの用事だった。


 夜、リーリエが書庫に本を返しに行く途中、カインの書斎の前を通りかかった。扉が薄く開いている。灯りが漏れていた。


 覗くつもりはなかった。他人の私事に踏み込むつもりなどなかった。けれど隙間から漏れた蝋燭の光が廊下に橙色の線を引いていて、その先に——足が止まった。


 カインが椅子に座り、左腕を押さえていた。袖をまくり上げ、傷口を見ている。あの日の傷——聖騎士団との戦いでできた傷だ。聖術を纏った刃が掠めた跡。傷口の周りに微かな白い光の残滓がある。


 三日経っているのに、治っていない。傷口の周囲が微かに腫れ、白い聖術の光が点々と残っている。まるで小さな星が肌の上に散っているように見えた。


 三日。普通の人間なら血が止まる程度の時間だ。カインほどの身体なら、とっくに塞がっているはずだ。


 カインの回復力は人間を遥かに超えている。ヴェルナーから聞いた。数百年を生きた身体は、常人なら数週間かかる傷も数日で塞がるはずだと。「旦那様は頑丈ですからな」とヴェルナーは少し自慢げに言っていた。


 なのに、三日前の傷がまだ開いている。


 リーリエは扉を押した。


「治っていないのですね」


 カインが顔を上げた。袖を下ろそうとしたが、リーリエの目はもう傷を見ていた。隠すには遅すぎた。


「……明日には治る」


「嘘ですね。もう三日経っています」


 カインの目が僅かに見開かれた。三日間、リーリエがカインの腕を観察していたことに気づいたのだ。


 リーリエ自身も、言ってから気づいた。三日間——自分はカインの左腕を見ていたのだ。朝食のとき、花茶を受け取るとき、廊下ですれ違うとき。歩き方、腕の振り方、外套の下の左腕の動き。無意識に観察し続け、「治っていない」と判断していた。


 いつから、こんなに人のことを見るようになったのだろう。


「座ってください」


「何をする気だ」


「座ってください」


 二度目は、少し強い声だった。自分でも驚くほどに。命令口調に近い。教会では誰にもこんな口調を使ったことがなかった。


 カインが——黙って座った。魔王が、聖女の言葉に従った。


 書斎は薄暗く、蝋燭の灯りだけが机の周りを照らしていた。古い文献の匂いと、微かな血の匂いが混じっている。リーリエはカインの隣に立ち、左腕の袖をそっとまくった。指先がカインの肌に触れる。温かい。人の体温だ。傷は深くはないが、聖術の余波が皮膚に染みついている。白い光の残滓が傷口を覆い、自然治癒を妨げている。


「聖術の残滓ですね。だから治りが遅い」


「わかるのか」


「聖女ですから」


 リーリエが傷口の上に手を置いた。


 掌が微かに光った。銀白色の、柔らかい光。聖女の癒しの力——結界を維持する力の片鱗。傷口に触れると、聖術の残滓が中和され、皮膚がゆっくりと塞がり始めた。白い光が銀白色の光に溶けていく。


 カインが目を見開いた。


「お前……癒しの力が」


「この程度はできます。聖女ですから」


 同じ言葉を繰り返した。けれど手が震えていた。力を使うと、身体に負担がかかる。結界との繋がりが引っ張られるような感覚。胸の奥で紋章が微かに疼く。まるで遠い場所から糸で引かれているような——


 傷が半分ほど塞がったところで、カインがリーリエの手を掴んだ。大きな手だった。リーリエの手が、すっぽりと包まれた。


「もういい」


 カインの手の温もりが掌に沁みている。


「まだ途中です」


「もういいと言っている。お前の手が震えている」


 リーリエは自分の手を見た。確かに震えていた。指先の光が揺れている。


「なぜ俺の傷を治す」


 カインの声は低く、けれど柔らかかった。


「……あなたが怪我をしているのは、私のせいです。私を守るために戦って、傷を負った。だから——」


「お前のせいではない」


「そう言うと思いました」


 リーリエの口元が——微かに動いた。笑みとは言えない。表情にはほとんど出ない。けれど声に、僅かな温度があった。


「いつも同じことを言いますね。『大したことはない』『お前のせいではない』。便利な言葉です」


「事実だ」


 蝋燭の炎がちりと音を立て、蝋の甘い匂いが漂った。カインの手がまだ温かい。傷口に触れた掌の記憶が、指先から消えない。


「嘘をつくのは得意なのに、嘘が下手ですね」


 カインが言葉に詰まった。リーリエに言い返せない顔をしている。五百年生きた魔王が、十七歳の少女に言い負かされている。


 リーリエは立ち上がりかけた。膝が揺れた。力を使った反動で、少しだけ眩暈がする。


「もう力を使うな」


 カインが立ち上がり、リーリエの肩を支えた。大きな手が、肩に触れる。温かくて、重い。


「お前の身体に触る」


「構いません」


「俺が構う」


 短い言葉だった。けれどリーリエの耳に、はっきりと残った。


 俺が構う。リーリエの身体のことを、リーリエ以上に心配している。自分の傷は「大したことはない」で済ませるくせに。自分が三日眠らなくても平気な顔をするくせに。自分のことには無頓着なのに、リーリエのことには——過敏なほどに。


「……変な人」


「何だ」


「何でもありません」


 カインが花茶を淹れに行った。一人になった書斎で、リーリエは自分の手を見つめた。


 震えは止まっていた。カインの傷に触れた掌に、まだ温もりが残っている。人の肌の温度。生きている人の体温。


 教会で聖女の力を使うときは、冷たい祭壇に触れていた。石の冷たさしか知らなかった。人の温かさに触れながら力を使ったのは——これが初めてだった。


 カインが花茶を持って戻ってきた。カップをリーリエの前に置く。


「飲め」


「……ありがとうございます」


 花茶は、温かかった。


 カップの向こうに、カインの姿が見えた。椅子に座り、古文書を広げている。いつもの姿。けれどさっきまでリーリエの手を握っていた手が、今はペンを握っている。あの手の温もりを知っている指が、今は古い文字を追っている。


 リーリエは茶を飲み干し、カップを机に置いた。陶器がかちりと鳴る小さな音が、書斎の沈黙に吸い込まれた。


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