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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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戻りたくない

 戦いから数日が経った。


 城壁の修繕が少しずつ進み、砕けた石が新しい石に置き換えられていく。石工の魔族たちが朝から働き、のみつちの音が規則的に響いている。庭の花壇は戦闘の振動で少し傾いたが、リーリエが手直しをした。


 魔王城の日常は、ゆっくりと緩やかに戻りつつあった。マリカは朝食を作り、リュカは廊下を掃除し、ヴェルナーは城壁の修繕を指揮していた。フィルは庭で蝶を追いかけ、カインは執務室にこもっている。いつもの景色だ。いつもの音だ。


 けれどリーリエは知っていた。「いつも」がいつまでも続くわけではないことを。


 午後、庭園に出た。


 カインが「リーリエの場所」として整えてくれた庭園。花壇にはエーデルフラウが白い花を咲かせ、小さな噴水が水音を立てている。石のベンチに座り、空を見上げた。秋の空は高く、薄い雲が流れている。


 聖騎士団はまた来る。カインが言っていた。「次はもっと大勢で」と。教会は諦めない。リーリエを取り戻すために、何度でも軍勢を送ってくるだろう。白銀の旗を掲げ、正義を掲げ、「聖女を救う」という名のもとに。


 噴水の水音が穏やかに響いている。風が花壇の花を揺らし、甘い香りが漂ってくる。平穏な午後。けれどその平穏の裏側で、次の嵐がすでに形を成し始めている。


 教会に戻れば——


 あの日々が始まる。


 冷たい石の祭壇。身体の芯を焦がす鈍い痛み。朝から晩まで、眠りについてすら止まらない灼熱。結界を維持するために、命を絞り取られる日々。白い聖衣は清潔だが、着心地は冷たかった。窓のない石の部屋。薄い毛布。一人きりの食事。


 誰にも「痛い」と言えなかった。言う相手がいなかった。「聖女の崇高な使命」に痛みは含まれていないことになっていた。痛がれば弱い聖女だと思われ、耐えることが美徳だった。


 戻りたくない。


 その言葉が、不意に胸に浮かんだ。


 リーリエは自分で自分に驚いた。座っていたベンチの上で、身体が微かに強張った。


 戻りたくない?


 花壇の向こうで、遠くの森が秋の色に染まりかけている。赤と金の葉が風に揺れ、木漏れ日が地面に斑模様を描いていた。季節が変わっている。自分がここに来てから、季節が一つ進もうとしている。


 ここに来た日のことを思い出す。崖から落ちて、カインに拾われて、魔王城に連れてこられた。あのとき何を思っていたか。


「どこにいても同じ」


 そう思っていた。教会にいても、魔王城にいても、崖の下にいても。自分にとって場所は意味を持たなかった。痛みが消えるなら、どこでもよかった。場所に執着するだけの感情が、残っていなかった。


 今は——違う。


「戻りたくない」。


 それは「生きたい」ではない。死にたいかと問われれば、以前ほど確信を持って頷けなくなっている。けれど「生きたい」とはまだ言えない。ただ——ここを離れたくない。


 花壇のエーデルフラウが風に揺れた。白い花弁が光を受けて透けている。花弁の縁が秋の日差しに薄く金色に染まっている。もうすぐ冬が来る。花の季節が終わる。


 花の名前。


 フィルに教えた花の名前。「お姉ちゃん、あの花なあに?」と聞かれて、「エーデルフラウです」と答えた。フィルの顔が陽光に照らされて輝いていた。フィルが「えーでるふらう!」と繰り返して、発音が可愛くて——いや、可愛いと思ったのだろうか。あれは何の感情だったのだろう。


 カインに教わった星の名前。冬の女王座、フェアシュテルン。五つの星が弧を描く星座。「孤独だが、一人じゃない」とカインが言った。


 リュカの料理の味。焼きたてのパンの香ばしさ。果実のスープの甘さ。「お嬢、もう一杯いけるっしょ?」と笑うリュカの顔。


 マリカが梳いてくれた髪の感触。「リーリエ様のお髪は綺麗ですね」と言われた。綺麗だと言われたのは、教会以来だった。けれど教会の「綺麗」は聖女としての価値を指していて、マリカの「綺麗」はリーリエ個人への言葉だった。


 ヴェルナーが貸してくれた本。古い歴史書。「聖女殿は読書がお好きですかな」と聞かれて、「嫌いではありません」と答えた。嫌いではない。好きかどうかは、まだわからない。好き嫌いを判断するだけの感情が、まだ十分に戻っていない。


 いつの間にか、この場所に「持ち物」が増えていた。


 教会を出た日は何も持っていなかった。自分の命すら荷物だとは思わなかった。けれど今、数えてみると——こんなにも持っている。


 花の名前。星の名前。リュカの絵。カインの茶。フィルの温もり。マリカの笑顔。


 どれも、取るに足りないものだ。世界の均衡に比べれば、塵のようなものだ。


 けれど——リーリエにとっては、初めての「持ち物」だった。風が花壇を吹き抜け、白い花弁が一枚舞い上がった。


「……困りましたね」


 呟いた。


 困っている。本当に困っている。


 死にたかったはずなのだ。疲れていたはずなのだ。もう何も感じたくなかったはずなのだ。


 なのに——離れたくないと思っている。


「困った」


 もう一度呟いて、リーリエは小さく息をついた。


 困っている。けれどこの「困った」は——悪い意味だけではなかった。


 困るということは、迷っているということだ。迷うということは、選びたいものがあるということだ。以前の自分なら迷わなかった。迷う余地がなかった。全てがどうでもよかったから。


 今は迷っている。迷えている。以前のリーリエなら知り得なかった贅沢だ。死ぬことしか選べなかった自分が、二つの選択肢の間で揺れている。


 花は咲いている。花壇のエーデルフラウが秋風に揺れ、白い花弁が光を透かしている。噴水の水音が穏やかに響く。風は吹いている。遠くでフィルの笑い声が聞こえる。


 もう少しだけ——ここにいたい。


 リーリエは目を閉じた。瞼の裏に、カインの深紅の瞳が浮かんだ。「手放したくない」と言った声が、耳の奥で響いた。


「……もう少しだけ」


 誰にも聞こえない声で、呟いた。風がエーデルフラウの花弁を揺らし、白い花びらが一枚、リーリエの膝の上に落ちた。軽い。儚い。けれどそこにある。


 拾い上げて、指の腹で触れた。柔らかかった。日差しに温められた、小さな命の欠片。


 もう少しだけ——この柔らかさの傍にいたい。そう思うことが、かつて死を望んだ自分への裏切りなのかどうか。答えは出ない。出ないけれど——花弁を握りしめはしなかった。そっと、膝の上に戻した。


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