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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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戦いのあとで

 戦いが終わって、城が静かになった。


 張り詰めていた空気が解けると、急に身体が重くなった。緊張が去った後の虚脱感。風の音が、戦闘の間は聞こえなかったのに、今は耳に届く。鳥が——戦いの間沈黙していた鳥たちが、また鳴き始めていた。


 聖騎士団が去った後、城は静まり返った。張り詰めていた空気が一斉にほどけ、従者たちが安堵の息をついた。聖騎士団が去った後、張り詰めていた空気が一斉にほどけた。従者たちがそれぞれの持ち場から出てきて、顔を見合わせ、安堵の息をつく。城壁に立っていた見張りが「終わった」と告げると、厨房のマリカが「よかった」と呟いて座り込んだという。


 リーリエが中庭に出ると、マリカが駆け寄ってきた。


「リーリエ様! ご無事でしたか!」


 マリカが走ってきた。エプロンの裾が翻り、赤毛の三つ編みが肩で跳ねている。目が赤い。泣いていたのだろう。頬に涙の跡が乾いて残っている。けれど声は必死に明るく保っている。


「無事です。私は城の中にいただけですから」


「それでも……怖かったでしょう。お怪我はありませんか。どこか痛いところは」


「ありません。マリカこそ、大丈夫ですか」


 マリカが目をぱちぱちさせた。リーリエが自分の安否を気にかけたことに驚いたのだ。以前のリーリエなら——「無事です」の一言で終わっていた。相手の心配を返す余裕も、意識もなかった。


「わ、私は平気です! 厨房に隠れていただけですから……」


 ヴェルナーが渡り廊下から報告に来た。眼鏡が少しずれている。普段は几帳面に整えているのに、今日ばかりは乱れを直す余裕がなかったのだろう。


「被害は軽微です。城壁の一部に損傷がございますが、構造に問題はありません。結界も健在です。負傷者は旦那様のみ。従者に被害はなし」


「旦那様のみ、ですか」


 リーリエが繰り返した。


「はい。旦那様が一人で前に出られましたので」


 一人で。三十人の精鋭を相手に、一人で。誰も傷つかないように、自分だけが矢面に立って。


 馬鹿な人だ、とリーリエは三度目に思った。


 廊下の奥から、小さな足音が聞こえた。


「お姉ちゃん!」


 フィルが走ってきた。金色の目に涙を浮かべ、小さな身体を震わせている。小さな角がぴくぴくと動いている——怖かったのだ。戦闘の音が城中に響いていただろう。子供にとっては恐ろしかったはずだ。


 フィルがリーリエの腰にしがみついた。小さな身体から伝わる体温は、いつもより高かった。恐怖で熱くなっているのだ。栗色の髪からは汗と涙の匂いがした。角がリーリエの服地に引っかかり、小さく布が鳴った。


「怖かったぁ……! 悪い人たちが来て、怖い音がして、壁がどんどんって……!」


「もう大丈夫ですよ」


「ほんと? もう来ない?」


「今は、来ません」


 リーリエの手が、フィルの頭を撫でた。今度は無意識ではなかった。意識して、撫でた。小さな角の間を指が滑り、栗色の柔らかい髪に触れる。温かい。小さい。壊れそうなほど柔らかい。


「お姉ちゃん……」


 フィルが泣きながら笑った。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、リーリエの服の裾を握りしめている。


 リーリエの腕が、フィルの小さな身体を抱きしめた。


 強く。自分でも驚くほど、強く。


 教会にいた頃、誰かを抱きしめたことはなかった。抱きしめられたこともなかった。抱擁は人間の行為で、聖女は人間ではなかった。世界の柱だった。柱は、誰も抱きしめない。


 けれど今、小さな身体の温もりが腕の中にあった。フィルの髪から石鹸の匂いがした。フィルの心臓の鼓動が、リーリエの胸に伝わっている。速い鼓動。怖かった名残の速さ。


「お姉ちゃん、あったかい」


「……あなたのほうが、温かいですよ」


 渡り廊下の上で、リュカが立ち止まっていた。


「……参ったな」


 低い声で呟いた。袖で目元を拭い、ヴェルナーに背を向ける。


「リュカ殿。泣いていますか」


「泣いてないっす。目にゴミが入っただけっす」


「左様ですか。……私も同じ症状のようですな」


 ヴェルナーが眼鏡を外し、丁寧にレンズを拭いた。曇っていた。


 遠くの厨房から、マリカが夕食の支度をする音が微かに聞こえた。鍋の蓋が触れ合う音。日常の音だ。戦いの後の日常は、戦いの前よりも少し重く、少し温かく聞こえる。


 中庭を横切って、カインが歩いてきた。何食わぬ顔で——しかしリーリエの目は見逃さなかった。左腕を庇うように歩いている。外套の裾が微かに暗い色に染まっている。血だ。


「旦那様、左腕から血が……」


 マリカが指摘した。


 カインが一瞬だけ不機嫌な顔をした。バレたくなかったのだろう。


「大したことはない」


「大したことはない、というのはあなたの口癖ですね」


 リーリエが言った。フィルを抱きしめたまま、カインを見上げている。薄い青紫の瞳が、真っ直ぐにカインの深紅の瞳を見ている。


「隠す癖は、直りませんか」


 カインが——笑った。


 笑ったというほどのものではなかった。口元が僅かに緩み、深紅の瞳の奥に柔らかい光が灯っただけだ。苦笑。自嘲に近い笑み。


 けれどリーリエに笑みを向けるのは、これが初めてだった。


「……うるさいやつだ」


「事実を述べただけです」


 腕の中でフィルが「旦那様、けがしてるの?」と心配そうに聞いた。カインが「掠り傷だ」と答え、フィルの角を指で軽く弾いた。フィルが「えへへ」と笑った。


 リーリエはカインの左腕を見た。血が外套を濡らしている。掠り傷ではない。


 戦いの後の魔王城は、静かだった。破壊の跡よりも、安堵の気配のほうが色濃い。


 フィルがリーリエの腕の中で眠りかけていた。重い。けれど離す気になれなかった。リーリエはそのまま廊下のベンチに座り、フィルの寝息を聞いた。マリカが毛布を持ってきて、フィルにかけてくれた。


 戦いは終わった。けれど何かが——確実に変わった。


 フィルを抱きしめ返した。カインに苦笑した。自分の中の何かが動いている。氷の下で、微かに水が流れ始めている。


 それが怖くもあり——嫌ではなかった。


 フィルが寝息を立て始めた。安心したのだろう。小さな鼻から規則的な呼吸が漏れ、胸が小さく上下している。温かい。この小さな生き物の温度が、腕の中にある。


 廊下の先から、マリカが夕食の支度をする音が聞こえた。鍋の蓋が鳴る音。香辛料の匂い。日常の音。戦いの後の日常は、戦いの前より少しだけ——大切に聞こえた。


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