聖騎士団の撤退
聖騎士団は、夕暮れとともに撤退した。
最後の一人が遠い地平線の向こうに消えるまで、リーリエは城壁の上に立っていた。夕日が空を茜色に焼き、白銀の鎧が遠くで最後の光を弾いた。風が冷たくなっている。夜が近い。
傷ついた聖騎士たちを互いに支え合いながら、隊列を組み直して——来た道を戻っていく。白銀の鎧は泥と血に汚れ、旗は半ば裂けていた。けれど、死者はいない。三十名全員が生きている。
カインの城壁から降ろされた水と包帯を、聖騎士たちは最初断ろうとした。敵からの施しを受けるわけにはいかないと。けれどレオンハルトが「受け取れ」と命じた。部下の傷を放置するわけにはいかない。騎士の誇りと部下の命を天秤にかけて、迷いなく命を選んだ。
リーリエは城壁の上に立っていた。カインが「外に出るな」と言ったのは門の外であって、城壁なら許容範囲だろうと勝手に解釈した。我ながら言い訳じみている。
聖騎士団の最後尾に、レオンハルトが歩いていた。負傷した部下の肩を支え、自分も傷だらけの身体を引きずりながら、一歩ずつ。団長が最後尾を歩く——殿を務めるのは指揮官の務めだ。この人は、そういう人なのだろう。
カインが城壁に上がってきた。
「帰れ。二度と来るな」
城壁の上から、聖騎士団に向かって言った。声は冷たかったが、刃はなかった。
レオンハルトが振り返った。夕日を背に、顔半分が影に沈んでいる。
「教会は諦めない」
静かで重い声だった。脅しではなく、事実の報告として。レオンハルトの琥珀色の目に、先ほどの戦いの衝撃がまだ残っていた。「殺す理由がない」と言った魔王の言葉が、まだ頭の中で響いているのだろう。
それから、レオンハルトの視線がリーリエを見つけた。城壁の上に立つ銀灰色の髪を。
「聖女様!」
叫んだ。夕暮れの中、声が広野に響いた。倒れかけた旗を背に、傷だらけの騎士が、それでも声を張り上げた。
「次は必ず、あなたを救い出します!」
リーリエは城壁の上から、その声を聞いた。
「……救う、ですか」
声は、レオンハルトには届かなかっただろう。城壁の上を風が吹き抜け、リーリエの銀灰色の髪を攫っていった。風は冷たく、夕暮れの匂いを含んでいた。遠くで鴉が一羽、鳴いている。戦場の名残の鉄の匂いが、まだ風の底に沈んでいた。
救い。
レオンハルトにとっての「救い」は、リーリエを教会に戻すことだ。教会の保護下に置き、聖女としての「使命」に復帰させることだ。あの人はそれを心から信じている。嘘がない。
リーリエにとっての「救い」は——何だろう。
教会にいた頃は、死が救いだと思っていた。苦痛から逃れること。もう何も感じなくなること。全てを閉じて、静かに終わること。それが唯一の「救い」だった。
今は——わからない。死にたいのかと問われれば、以前ほど明確に頷けない自分がいる。けれど「生きたい」とも言えない。ただ——ここを離れたくない。それだけが、かろうじて確かなことだった。
聖騎士団が遠ざかっていく。夕日に染まった影が、地平線に向かって伸びていく。やがて白銀の鎧の光も見えなくなり、旗の揺れも消えた。
カインがリーリエの隣に立った。並んで、去りゆく方向を見つめた。
「あいつらはまた来る」
「ええ」
「次はもっと大勢で来るだろう。教会が本気を出せば、軍勢の規模は桁が違う」
カインの声に、感情はなかった。事実を述べているだけだ。
「そうでしょうね」
短い言葉の往復。けれどリーリエには、その短さが心地よかった。余計なことを言わない。必要なことだけを言う。カインとの会話は、いつもそうだ。教会の司祭たちは言葉を飾り、美辞麗句で聖女を包んだ。「崇高」「清浄」「聖なる」——言葉は多いのに、中身がなかった。カインの言葉は少ないのに、重い。一語一語に体温がある。
風が二人の間を通り抜けた。
「怖いか」
カインが聞いた。不意に。
リーリエは考えた。怖いか。教会が来ることが。戦いが起きることが。
怖くはなかった。戦いそのものは——教会にいた頃、毎日が戦いだった。身体の中で灼かれ続ける痛みとの、終わらない戦い。それに比べれば、剣の戦いなど。
けれど。
風が冷たくなっている。吐く息が微かに白く曇り始めていた。冬が近い。空の高い位置で、一番星が光り始めている。
「……教会に戻ることが、怖いとは思いませんでした」
「今は」
「今は——少しだけ」
カインが頷いた。
それ以上は聞かなかった。追及も、慰めも、励ましもなかった。ただ頷いて、隣にいた。カインはいつもそうだ。聞きすぎない。触れすぎない。けれど離れない。
リーリエはそのことに——感謝した。言葉にはしなかったけれど。
教会に戻ることが怖い。
それは——失いたくないものがあるということだ。
いつからだろう。教会を出た日は、何も持っていなかった。自分の命すら持ち物だとは思っていなかった。
今は違う。花茶の匂いを知っている。星の名前を覚えた。リュカの笑顔を見た。フィルの温かい手を握った。マリカの料理を「美味しい」と言った。
そして——隣にいる人の体温を、知り始めている。外套の重み。花茶の温度。名前を呼ぶときの声の震え。嘘をつくときの視線の泳ぎ。全部、リーリエの中に積もっている。塵のように軽いものが、砂時計のように少しずつ溜まって——いつの間にか、重さになっていた。
失いたくない。
その感情が「怖い」の正体だ。何かを持つことは、失うことを恐れることだ。何も持たなければ、失うこともない。教会にいた頃は何も持っていなかったから、何も怖くなかった。
今は——少しだけ、怖い。
リーリエは空を見上げた。夕焼けが消え、最初の星が瞬き始めていた。
カインが隣にいる。風が冷たい。星が光る。吐く息が白く曇り始めている。冬が近い。
この時間が——少しだけ、惜しいと思った。
惜しい。その言葉がリーリエの中で初めて輝いた。教会にいた頃は、全ての時間が平坦で、過ぎ去ることだけが救いだった。今は違う。この夕暮れが終わることが、ほんの少しだけ——惜しい。
風が吹いた。冷たい風が、リーリエの銀灰色の髪とカインの黒い外套を同時に揺らした。同じ風に吹かれている。同じ場所に立っている。
それが当たり前のことだと思えるようになったのは——いつ頃からのことだったろう。




