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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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退かぬ騎士

 レオンハルトは退かなかった。


 夕陽が戦場を赤く染めている。地面には砕けた鎧の破片が散らばり、白い外套が泥に汚れて灰色に変わっていた。血の匂いと土の匂いが混じり合い、重い空気が漂っている。


 部下たちが倒れ、聖騎士団が壊滅した中で、たった一人、剣を構え続けていた。白銀の甲冑は泥と血と汗に汚れ、右の肩当ては粉々に砕けている。呼吸は荒く、足元がふらついている。


 それでも——剣を離さない。


「まだだ」


 声が掠れていた。唇が割れ、乾いた血がこびりついている。呼吸のたびに肋骨が軋む音がする。けれど意志だけは、一ミリも折れていなかった。琥珀色の目が、夕日の中で煌々と光っている。


「聖女を取り戻すまで、退くわけにはいかない」


 カインが、ゆっくりと歩み寄った。戦いの痕跡は周囲に散らばっているが、カインの息は全く乱れていない。三十人を相手にして、まるで朝の散歩を終えたかのような涼しい顔をしている。


「やめておけ。お前は十分戦った」


「まだだ」


 レオンハルトが斬りかかった。渾身の一撃。聖術を剣に纏わせた一太刀——聖騎士団長の全力。白い光が剣身を走り、空気を切り裂く。


 カインが片手で受けた。素手で。掌に白い光が当たり、微かに煙が立つ。聖術は魔の存在には痛いはずだ。けれどカインは顔色一つ変えず、レオンハルトの剣を掴み——弾いた。


 剣がレオンハルトの手から飛び、五歩先の地面に突き刺さった。夕日を受けて、刀身が赤く光った。


 レオンハルトが膝をついた。


 素手でも構えた。


 拳を握り、立ち上がろうとする。膝が震え、何度も崩れかける。右足が言うことを聞かない。それでも立とうとする。歯を食いしばり、額に脂汗を浮かべ、一度目は崩れ、二度目も崩れ、三度目に——立った。


 拳を構えた。素手で。魔王に向かって。夕日が二人の間に落ち、赤い光がレオンハルトの血と泥に汚れた鎧を灼いている。風が止まり、空気が張り詰めた。砂埃すら動くのをやめたような一瞬だった。血が額から頬を伝い、顎から滴り落ちている。白銀の甲冑は泥と血で灰色に変わり、聖なる紋章は半分が剥がれている。それでも——目が生きている。


 リーリエは窓辺で、息を止めて見ていた。窓ガラスに手が張りつき、ガラスの冷たさも忘れている。


 馬鹿な人だ、と思った。勝てるわけがない。素手でカインに勝てるはずがない。わかっているだろうに。わかっていて、それでも——


 カインが立ち止まった。レオンハルトを見下ろしている。深紅の瞳に、怒りはなかった。軽蔑もなかった。


「……お前は、真っ直ぐだな」


 呟くような声だった。戦場にはそぐわない、穏やかな声。


 その声に——懐かしさが滲んでいた。


 リーリエにはわかった。カインがレオンハルトの中に、何かを見ている。過去の何かを。あるいは過去の自分を。かつて聖女を守ると誓い、信仰に燃え、真っ直ぐに剣を振るっていた頃の——自分自身を。


 夕日が地平線に沈みかけ、空の半分が深い紫に染まっている。


「退け、聖騎士。お前が命を捨てる場所はここじゃない」


「俺は……聖女を守ると、誓った……!」


「ならば生きろ。死んだ騎士は誰も守れない」


 その言葉は——重かった。


 五百年前に、同じ言葉を自分に言い聞かせたことがあるのかもしれない。守れなかった。死んでしまいたかった。けれど死んでは何も守れない。だから生きた。五百年。たった一人で。


 レオンハルトの腕が下がった。力が尽きたのではなく——カインの言葉に、何かを突かれたのだ。「死んだ騎士は誰も守れない」。それは正論だ。この場で死んでも、聖女は救えない。


 リーリエは窓枠に額を寄せた。冷たいガラスが肌に触れる。


 あの二人を見ていると、不思議な気持ちになる。カインの圧倒的な力。レオンハルトの折れない意志。方法は違う。立場は敵同士だ。けれど——どちらも「守りたい」と思っている。


「守りたいと言ってくれる人がいる」


 声に出さずに呟いた。窓ガラスに自分の吐息が曇りを作り、すぐに消えた。指先が窓枠に食い込んでいて、爪の跡が白く残っている。目の奥が熱い。鼻の奥が痛い。


 教会にいた頃、「守る」と言った人はいなかった。「崇める」「奉る」「仕える」はあった。けれど「守る」は——一度もなかった。聖女は守られる存在ではなく、世界を守る側の存在だった。盾にはなれても、盾で守られることはなかった。


 今、目の前で二人の男が戦った。どちらも、自分のやり方で聖女を「守ろう」としている。


 守られるということが、こんなに胸を締めつけるものだとは知らなかった。 肋骨の内側から何かが押し広げるように膨らんで、呼吸が浅くなる。目の奥が熱い。鼻の奥が痛い。温かいのに苦しい。嬉しいはずなのに、目の奥が熱い。


 リーリエは自分の目元に触れた。濡れてはいなかった。けれど——目の奥に、確かに何かが溜まっている。涙の予兆。まだ落ちないけれど、いつか落ちるかもしれない何かが。


 戦場では、カインがレオンハルトに背を向けていた。


「連れて帰れ。お前の部下を。怪我人がいるなら治療してから行け。水と包帯は渡す」


 レオンハルトが呆然と見上げた。


「……なぜ、そこまで」


「言っただろう。殺す理由がないのと同じだ。見殺しにする理由もない」


 カインが城壁に向かって歩いていった。背中に、夕日が差している。長い影が、倒れた聖騎士たちの上を滑っていった。黒い外套が夕風に揺れ、裾がゆっくりと翻る。その背中は大きく、孤独で——けれど温かかった。殺さないことを選んだ背中。水と包帯を渡すことを選んだ背中。


 リーリエはその背中を見つめた。


 あの人はいつも、背中で語る。不器用で、素直に言葉にできなくて、けれど行動だけは嘘をつかない。


 窓の外で、レオンハルトがゆっくりと立ち上がった。


 琥珀色の目が、カインの背中を見つめていた。そこに宿る感情は——もう敵意だけではなかった。困惑と、微かな敬意に似た何かが、琥珀の中に芽生え始めていた。


 リーリエは窓辺に額を押しつけたまま、レオンハルトの目を見つめた。あの目に浮かんだものは——剣を交えたからこそ生まれた何かだ。カインの強さを知り、カインの優しさを知り、「魔王」という言葉の意味が揺らぎ始めている。


 正義は、揺らいだときにこそ本物になる——そう書いてあった。リーリエは教会の書物でそう読んだことがあった。今、レオンハルトの中で何かが始まろうとしている。


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