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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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魔王の力

 戦いが始まった。


 その瞬間を、リーリエは城の窓越しに見ていた。空気が変わった。穏やかだった午後の光が、一瞬で戦場の色に染まった。鉄と土と汗の匂いが、開け放った窓から風に乗って運ばれてくる。


 リーリエは城の窓から見ていた。手が窓枠を握っている。指先が白い。カインに「見なくていい」と言われたのに——見ずにはいられなかった。何が起きているのか、目を逸らしてはいけない気がした。自分のために起きている戦いから、目を背けてはいけないと。


 聖騎士団が攻撃を開始した。三十名の精鋭が隊列を組み、前衛が剣を構えて突撃する。銀光が地面を走る。後衛が聖術を唱え、白い光が矢のように魔王城に向かって飛んだ。光の矢は城壁に当たり、弾け散った。結界が防いでいる。


 カインが城壁から飛び降りた。


 一人で。


 黒い外套が風に広がり、鳥が翼を広げるような一瞬の後、城壁の高さから地面に降り立った。衝撃で地面が罅割れ、砂塵が舞い上がる。土煙の中からカインの姿が現れたとき、聖騎士たちの足が止まった。


 たった一人で。三十名の精鋭の前に、たった一人で立っている。


 リーリエの指が窓枠を握りしめた。心臓が速い。結界の痛みとは違う鼓動。窓ガラスに額を押しつけ、冷たさも忘れて見つめている。


「馬鹿ですか、あの人は」


 呟いた。声が震えていた。自分でも驚いた。「馬鹿」という言葉が口をついて出たのは初めてだった。教会にいた頃は誰にもそんな言葉を使わなかった。使う感情が残っていなかったから。


 聖騎士が三人同時に斬りかかった。金属が風を切る鋭い音。剣が三方から閃く。カインが右手を振るった。見えないほどの速さ——いや、リーリエの目には辛うじて見えた。掌から放たれた黒紫の魔力が剣を弾き、三人を同時に吹き飛ばした。鎧が砕け、身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。


 しかし致命傷ではない。鎧は砕けたが、身体は無事だ。意識を失っているが、呼吸はある。


 後衛の聖術がカインに直撃した。眩い光が窓越しにリーリエの目を灼き、一瞬だけ視界が白くなった。白い光の奔流がカインの全身を包む。教会の聖術——祝福の力を攻撃に転用したものだ。聖なる光は魔の存在には猛毒のはず。


 けれどカインはその中を歩いた。外套の裾が焦げ、肌に微かな火傷が走る。それでも歩みは止まらない。まるで嵐の中を散歩するように。


 左手を掲げた。闇の色をした魔力が渦を巻き、圧縮され、衝撃波となって放たれた。大地が震え、砂塵が壁のように舞い上がる。聖騎士団の隊列が一撃で崩れた。騎士たちが地面に叩きつけられ、剣が弾かれ、鎧が砕ける。白銀の甲冑が泥まみれになり、聖なる紋章が歪む。


 リーリエは窓枠を握りしめたまま、瞬きも忘れて見ていた。窓ガラスが戦闘の衝撃で微かに震え、額に当てた冷たさの中にも振動が伝わってくる。心臓が早い。息が浅い。


 圧倒的だった。


 三十名の精鋭聖騎士が、たった一人の男に蹂躙されていく。いや——「蹂躙」ではない。


 リーリエは気づいた。


 殺していない。


 カインは一人も殺していなかった。


 剣を折る。鎧を砕く。意識を刈る。けれど致命傷は与えない。急所を避け、骨を折らず、血を流しすぎないように——圧倒的な力を、精密に制御している。


 これだけの力を持ちながら、「殺さない」ことを選んでいる。


 それは「殺す」より遥かに難しいことのはずだ。全力で叩き潰すほうがよほど楽だろう。殺さないためには、一撃ごとに力を加減し、相手の耐久力を見極め、致命傷にならない角度で打ち込まなければならない。


 三十人の相手を同時にこなしながら、その全員を「殺さない」。一撃ごとに力の加減を変えている。


 それは——強さの極致だった。力を使うことは簡単だ。力を制御することが難しい。全力で叩けば済むものを、一人ひとりの限界を見極め、その手前で止める。五百年の修練が生んだ、残酷なまでの優しさ。


 聖騎士たちが次々と倒れていく。立っているのは、もう数人しかいない。カインの黒い外套が戦場の中心で翻るたび、白銀の鎧が地に伏す。


 その光景は——リーリエの目には、美しく映った。自分でも驚いた。戦いを美しいと思うなど。けれど否定できない。カインの動きには無駄がなく、一振り一振りに意志があった。


 恐ろしく、圧倒的で、しかし残酷ではない。カインの動きには無駄がなく、力には節制があった。圧倒するが蹂躙しない。打ち倒すが踏みにじらない。


 砂塵が収まると、戦場の全容が見えた。白銀の鎧が地面に散らばっている。呻き声が低く響き、壊れた剣が夕日を受けて鈍く光っている。


 最後に立っているのは、レオンハルトだった。倒れた部下たちの前に立ち、剣を構えている。鎧の肩当てが砕け、頬から血が流れている。右足を引きずっている。それでも目は死んでいなかった。琥珀色の瞳に、まだ光が残っていた。


「なぜ殺さない」


 レオンハルトが問うた。息が荒い。剣を持つ手が震えている。けれど声は震えていなかった。夕日が地面を赤く染め、二人の長い影が東の壁に伸びている。


「殺す理由がない」


 カインが答えた。何でもないことのように。


「我々は教会の兵だぞ。お前にとっては敵だ」


「お前たちが俺の敵だとは思っていない」


 カインの深紅の瞳が、レオンハルトを見た。夕日が二人の間に落ちて、影が長く伸びている。


「俺の敵は、別にいる」


 レオンハルトが息を呑んだ。


 リーリエも窓辺で、同じように息を呑んでいた。


 俺の敵は別にいる。聖騎士団ではない。教会の兵士ではない。カインが戦っているのは、もっと大きな何かだ。


 殺さない。敵だと思わない。


 魔王と呼ばれる人は、剣を向けてきた者たちを殺さなかった。力があるのに殺さない。それは弱さではなく、選択だ。


 リーリエは窓枠から手を離した。


 いつの間にか、指先に力が入りすぎて、爪の跡がついていた。白い肌に赤い三日月型の跡が残っている。


 いつから自分は、こんなに必死にあの人を見ていたのだろう。


 窓枠に残った爪の跡が、じんじんと痛んでいた。その痛みは、胸の奥の灼熱とは違う種類のものだった。もっと鋭く、もっと切実な——誰かのために感じる痛み。教会にいた頃は知らなかった種類の。


 あの人が傷つくことが、怖い。その恐怖は骨の奥にまで沁みている。


 その感情が胸の中で確かな形を持ったとき、リーリエは自分が変わり始めていることを、もう否定できなかった。


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