初代聖騎士の伝承
交渉は決裂した。
それは誰もが予想していた結末だった。城壁の上に立つカインと、門前に立つレオンハルト。黒と白。二つの意志がぶつかり合い、折れるのはどちらでもなかった。風だけが二人の間を通り抜け、砂埃を巻き上げている。
レオンハルトが部下たちと相談し、再び門前に立ったのは、日が傾き始めた頃だった。午後の陽光が長い影を地面に引いている。
「魔王カイン。最後に一度だけ問う。聖女を返してもらえるか」
「何度聞いても同じだ。断る」
カインが城壁の上から答えた。リーリエは城壁の窓から見ている。カインの背中と、レオンハルトの顔が同時に見える位置だ。黒い外套と白銀の甲冑が、夕日の中で対峙している。
レオンハルトの手が、剣の柄にかかった。革の手袋が軋む音がした。
「ならば——聖騎士団の名において、力をもって聖女を解放する」
「やってみろ」
カインの声には、威嚇がなかった。むしろ穏やかですらあった。それが、逆に底知れない。本当に強い者は声を荒げない——教会の書物で読んだ一節を、リーリエは思い出した。
空気が張り詰めた。聖騎士たちが隊列を整え、剣を抜く音が一斉に響いた。三十本の刃が夕日を受けて光る。レオンハルトが剣を掲げ——
「待て」
レオンハルトが自ら動きを止めた。部下たちが怪訝な顔をする。
「魔王。お前は何者だ」
唐突な問いだった。風が止んだように空気が静まった。
「人間でも魔族でもない気配がする。この世に生きる者とは思えない力の残滓がある。五百年を生きた存在の気配——だが、人間のそれに近い。お前は——何者だ」
カインが答えなかった。深紅の瞳が、レオンハルトを見下ろしている。無表情。けれどその無表情の奥に、何かが張り詰めている。
「我々聖騎士団には、伝承がある」
夕風が城壁を吹き抜け、砂埃を運んでいった。陽光が傾き、二人の影が地面に長く伸びている。空気が重い。鉄と汗の匂いが、風にも拭いきれずに漂っている。
レオンハルトの声が変わった。戦場の声ではなく、語りの声。聖騎士団の中で代々受け継がれてきた物語を口にする、厳かな声。
「初代聖騎士。聖騎士団の創設者にして、最強の騎士。信仰篤く、剣は天下に並ぶ者なし。聖女を守る誓いを立て、聖騎士団を築いた英雄」
リーリエは息を止めた。初代聖騎士——その名は教会の歴史書にもあった。聖騎士団の礎を築いた伝説の騎士。だが記録には名前が残っていない。「初代聖騎士」とだけ記されている。
「しかし彼は教会を裏切った」
レオンハルトの声が低くなった。影が差すような声だった。
「聖女を連れ去ろうとした。聖なる使命を否定し、教会に刃を向けた。その罪で追放され——やがて、魔王と呼ばれるようになった」
風が城壁を吹き抜けた。夕暮れの風が、レオンハルトの白い外套とカインの黒い外套を同時に揺らした。
リーリエの目は、カインに釘づけだった。窓枠を握る手が白くなっていることにも気づかず、息を詰めて城壁の上のカインを見つめている。
カインの表情が——凍った。
一瞬だった。ほんの一瞬、カインの顔から全ての感情が消え、深紅の瞳が硬質な光を帯びた。呼吸が止まったようにすら見えた。石像になったように——いや、石よりも冷たく、石よりも脆い表情だった。
そしてすぐに、平静が戻った。いつもの無表情。しかしリーリエは見逃さなかった。
「聖女を連れ去ろうとした」——その言葉に、カインが反応した。
今まさに、カインは聖女を「連れ去っている」。リーリエを教会から遠ざけ、魔王城に置いている。五百年前の伝承と、今起きていることが——重なる。
そして——もう一つ。
カインがリーリエの名前を呼ぶとき、一瞬の間が入ること。あの癖。何かを飲み込むような、別の名前を押し殺すような間。初代聖騎士が「聖女を連れ去ろうとした」なら——その聖女の名前が、カインの舌の上で引っかかっているのではないか。
「昔話はそこまでにしろ」
カインの声が落ちた。石を投げ込んだ水面のように、空気が波打った。低く、冷たく。城壁の空気が凍るような声だった。夕日の温もりすら消え去るほどの冷気が、声に宿っていた。
「お前の伝承と俺は関係ない。これ以上くだらない話を続けるなら、力で黙らせる」
レオンハルトが一歩引いた。地面を踏む甲冑の音が乾いた音を立てた。カインの放つ気配が変わったのを感じ取ったのだろう。聖騎士団の騎士たちが、反射的に剣を構え直した。
「……そうか」
レオンハルトは深く息を吐いた。
「ならば、剣で語ろう」
聖騎士団が動き始めた。金属の鳴る音が風に乗って城壁に届く。統制のとれた足音が地面を揺らしている。
しかしリーリエの頭の中では、別のことが渦巻いていた。
初代聖騎士。教会を裏切り、聖女を連れ去ろうとした者。追放され、魔王と呼ばれるようになった者。
カインの反応。あの一瞬の凍結。名前を呼ぶときの間。封じられた部屋。五百年の寿命。
全てのかけらが、一つの絵に向かって集まり始めている。まだ完成しない。まだ見えない。けれど——輪郭は浮かび始めていた。
リーリエは廊下の壁に背中を預けた。石壁が冷たい。背中から体温を奪っていく。けれどその冷たさが、今は心地よかった。頭の中が熱い。情報が多すぎる。初代聖騎士。教会を裏切った者。聖女を連れ去ろうとした者。カインの凍りついた表情。全てが頭の中で渦を巻いている。
目を閉じた。
カインは——何者なのだろう。
問い詰める気はなかった。今はまだ。この人には、まだ語れない過去がある。リーリエにだって、語りたくない過去がある。無理に開けるものではない。封じられた扉のように——開ける準備ができたときに、自ら開けるものだ。
けれど、忘れはしない。
あの一瞬の凍りついた表情を。リーリエはそっと胸の奥にしまった。いつか全てのかけらが嵌まる日が来るまで。
廊下の窓から外を見た。夕日がカインの黒い外套を赤く染め、城壁の影が長く伸びている。聖騎士団の旗はもう見えない。けれどレオンハルトの伝承の言葉が、風の中にまだ漂っている気がした。
初代聖騎士。聖女を連れ去ろうとした者。追放された者。
——カイン。




