解放という名の鎖
レオンハルトの要求は明確だった。
門前に立つ聖騎士団長の声は、城壁に反射してリーリエの耳にまで届いた。風が砂を巻き上げ、レオンハルトの白い外套をはためかせている。陽光が甲冑の肩当てに当たり、眩しい光の点を散らしていた。
「聖女と直接話がしたい。二人きりで」
カインの表情が硬くなった。顎の筋肉が僅かに動き、深紅の瞳に鋭い光が走った。
「必要ない。リーリエは教会に戻る気はない。以上だ」
「それは聖女自身の言葉ではないだろう。魔王の言葉だ」
レオンハルトの琥珀色の目が揺らがない。真っ直ぐな目だった。嘘がつけない目。この人は本気で、聖女の意思を確認したがっている。「魔王に洗脳された聖女」を「解放」するのではなく、聖女自身の口から聞きたいのだ。
それは——誠実な態度だった。
カインが歯を食いしばるのが見えた。言い返したいだろう。「リーリエの気持ちは俺が一番知っている」と。けれどそれは——嘘になる。リーリエの気持ちは、リーリエにしかわからない。
リーリエは、城壁の階段を降りた。
中庭に出ると、カインが振り向いた。「リーリエ、戻れ」と言いかけたが、リーリエはその前に口を開いた。
「話します」
「何を——」
「この人と。私の口で答えます」
カインの深紅の瞳が揺れた。拒否したい。それは顔に書いてあった。この人は嘘が下手だ。表情に全部出る。出ていないと思っているのは本人だけだ。
けれどリーリエが一歩を踏み出し、カインの隣を通り過ぎたとき——カインは腕を伸ばしかけて、止めた。握りかけた手を開き、拳を下ろした。
「……わかった」
低い声だった。不本意を押し殺した声。
「ただし、俺はここにいる」
「構いません」
門が半分だけ開かれた。リーリエが門前に出る。聖騎士たちが一斉に姿勢を正した。白銀の鎧が陽光を弾き、リーリエの目が一瞬眩んだ。教会にいた頃は毎日見ていた光だったのに、今は眩しく感じる。
レオンハルトが進み出た。
近くで見ると、記憶通りの顔だった。真っ直ぐな目、刀傷のある頬、日に焼けた肌。けれど以前会ったときより少し痩せている。目の下に薄い隈がある。行軍の疲れだろうか——それとも、この任務そのものに苦悩しているのか。
「聖女様」
レオンハルトが片膝をついた。騎士の礼。甲冑が地面に触れる硬い音がした。頭を垂れ、剣を地面に突き立てる。古来の敬意の形式だ。
「ご無事で何よりです。教会に戻れば安全です。大司教猊下が聖女様のお帰りをお待ちです」
「安全、ですか」
リーリエは静かに繰り返した。安全。その言葉が口の中で転がる。苦い味がした。
「はい。教会はあなたを守ります。聖騎士団が護衛を務め、以前のような——」
「以前のような」
リーリエの声が、ほんの少し冷えた。自分でも意外なほどに。
「以前のような、とは何でしょうか。以前のように祭壇に座り、身体を焼かれながら結界を維持する、ということでしょうか」
レオンハルトの口が止まった。片膝をついたまま、顔を上げた。
「あるいは、冷たい石の部屋で一人きりで朝を迎え、身体の芯が燃え続けるのを耐える日々に戻る、ということですか」
「聖女様——」
「教会が守ったことは、一度もありませんでしたが」
言葉が、静かに刺さった。
レオンハルトの琥珀色の目が見開かれた。リーリエの声には怒りがなかった。恨みもなかった。ただ事実を述べただけだった。それが余計に重い。叫びよりも、囁きのほうが深く突き刺さることがある。
「……聖女様、それは……」
「あなたは、聖女が何をされてきたか、知っていますか」
レオンハルトが答えられなかった。膝をついたまま、拳を握っている。甲冑の手甲が軋む音がした。
知らないのだ、とリーリエは思った。この人は何も知らない。教会が聖女に何をしているのか、知らずに「救いに来た」と言っている。正義は本物だ。けれど正義の土台が、砂の上に立っている。
沈黙が長く伸びた。風が二人の間を通り抜け、リーリエの銀灰色の髪と、レオンハルトの白い外套を揺らした。
「聖女様」
レオンハルトが立ち上がった。表情が変わっていた。困惑。動揺。そして——初めて浮かんだ、疑問の影。正義の鎧に、最初のひびが入った瞬間だった。
「あなたは……ここに自分の意思でいらっしゃるのですか」
リーリエは一呼吸おいた。
「自分の意思かどうかは、わかりません」
正直な答えだった。ここにいるのは、カインに拾われたからだ。自分で選んだわけではない。けれど——
「ただ、教会に戻りたいとは思いません」
レオンハルトが息を呑んだ。
「なぜ——」
「理由を聞きますか」
リーリエの薄い青紫の瞳が、レオンハルトを見つめた。穏やかで、けれど底のない目。教会にいた頃は虚ろだった瞳に、今は微かな意志の光が宿っている。レオンハルトはその目から視線を外せなかった。
「……いいえ。今は」
レオンハルトが後退した。半歩だけ。
「しかし、聖女様。教会の立場として、このままでは引き下がれません」
「ええ。そうでしょうね」
背後で、カインの気配が揺れた。静かな怒り。しかしリーリエが振り返り、目で制した。大丈夫です、と。
カインが目を瞬いた。リーリエに制止されることが、初めてだったのかもしれない。あるいは——リーリエが「大丈夫です」と目で語ったことに、驚いたのかもしれない。
「レオンハルト殿」
リーリエが名前を呼んだ。レオンハルトが背筋を伸ばした。
「あなたは良い騎士だと思います。正義を信じている目をしていますから」
「……光栄です」
「けれど——その正義の先に何があるのか、ご自身で確かめてみてください」
リーリエは踵を返した。門をくぐり、魔王城の中に戻る。カインが黙って横に並んだ。
門が閉じる寸前、リーリエは振り返らなかった。けれど背中に、レオンハルトの視線を感じていた。困惑と、痛みを含んだ視線。
あの騎士は——正しい人だと思う。
だからこそ、いつか気づくだろう。自分が「救い」と呼んでいるものの正体に。
門が完全に閉じた。重い木と鉄の音が、中庭に響いた。カインがリーリエの隣に立っていた。何も言わない。ただ——肩が触れそうな距離にいる。
リーリエは自分の口から出た言葉を反芻した。「教会に戻りたいとは思いません」。それは——ここに来て初めて、自分の意志で「拒否」を選んだ瞬間だった。「どうでもいい」ではなく。「どこでも同じ」でもなく。明確に——戻りたくないと。




