聖騎士団長
正午を少し過ぎた頃、地平線に白銀が光った。
最初は蜃気楼かと思った。陽炎が立ち上る地平線の向こうに、銀色の線がゆらりと揺れている。けれどそれは蜃気楼ではなかった。光は次第に形を成し、一列に並んだ金属の反射だとわかった。
リーリエは城壁の窓から見ていた。陽光を受けて煌めく鎧の列が、一筋の道をなして魔王城に向かってくる。白い旗に刻まれた紋章——交差する二振りの剣と、その上に輝く聖印。聖騎士団の旗だった。
見覚えがある旗だった。二年前まで、あの旗の下にいた。聖女として祭壇に立ち、あの紋章を背景に祈りを捧げていた。白い聖衣を着て、冷たい石の床に膝をつき、あの紋章に向かって祈った。痛みに耐えながら。
今はそれを、魔王城の窓から見下ろしている。黒い服を着て、温かい城の中から。聖女が魔王の城から教会の軍勢を見下ろす——おかしな構図だった。
「……教会の旗」
「来やがったっすね」
リュカが隣で腕を組んでいた。いつもの軽い口調だが、目が笑っていない。琥珀色の瞳が細められ、尖った耳が僅かに動いている。半霊族の耳は感情に敏感だ。今、リュカの耳はぴんと立っている——緊張している証拠だ。
「三十人っすか。……旦那様一人で十分すぎるっすけどね」
「リュカ」
「はいはい。お嬢は城の中にいてくださいね。絶対に出ちゃ駄目っすよ。旦那様に怒られるの俺なんで」
「わかっています」
リーリエは窓辺から離れかけて、もう一度振り返った。聖騎士団の旗が、風に翻っている。白と銀。清廉な色。けれどリーリエにとって、その色は「清い」ではなく「冷たい」を連想させた。
リーリエは窓枠に手を置いた。石の冷たさが掌を刺し、指先が微かに白くなった。城壁に向かったのはカインだった。黒い外套が風に翻り、城壁の上に立つ姿は、まさに魔王そのものだった。威圧的で、孤独で、圧倒的に強い。黒い城壁の上に黒い外套。教会の白銀とは対照的な色だ。
聖騎士団が門前に到達した。馬のいななき、甲冑の軋む音、統制のとれた足並み。精鋭部隊だとわかる。
先頭に立つのは一人の青年だった。他の騎士たちより一歩前に出て、馬を降り、兜を外す。
砂色の短髪。琥珀色のまっすぐな目。右頬に古い刀傷。白銀の甲冑に刻まれた紋章は他の騎士より大きく、肩当てに金の縁取りがある——団長の証だ。
聖騎士団長。
リーリエは知っていた。門前の砂塵が風に巻き上げられ、城壁を越えて窓の近くまで舞い上がってくる。砂の匂いと鉄の匂いが混じった空気が、鼻の奥を刺した。教会にいた頃、一度だけ護衛任務で会った。祭壇の前に立ち、聖女を守るように剣を構えていた青年。名は——レオンハルト。レオンハルト・クレーフェ。
「魔王カイン!」
青年が声を張り上げた。若く、力強く、迷いのない声。まるで鐘を打つような響きがあった。
「聖女リーリエを解放せよ! 教会は聖女の安全を保障する!」
城壁の上から、カインが見下ろした。深紅の瞳が、冷ややかに聖騎士団長を捉える。
「保障? 教会がか」
カインの声は低く、城壁から落ちてくるように響いた。
「笑わせる」
「聖女は教会に仕える身だ! 魔王に囚われた聖女を救出するのが、我々聖騎士団の使命!」
レオンハルトの声には、純粋な正義が宿っていた。疑いのない目。信じるものが明確にある者の強さ。あの目は偽れない——少なくとも、この人は本気で「聖女を救う」ためにここに来ている。教会の命令だからではなく、自分の正義を信じて。
風が城壁を吹き抜け、甲冑が陽光を弾く眩しさが目に沁みた。鉄と土の匂いが、花壇の甘さを塗り潰すように漂っている。リーリエは窓から身を乗り出しかけた。リュカが「お嬢!」と制止する。
「大丈夫です。少し見るだけです」
「旦那様に怒られるのは俺なんすけど……」
リーリエの視線は、レオンハルトに向けられていた。あの騎士。護衛任務のとき、祭壇の前に立っていた。聖女の傍に控え、剣を構えていた姿を覚えている。
あのとき、一度だけ目が合った。レオンハルトの琥珀色の瞳には、忠義と——ほんの一瞬だけ、揺れがあった。あれは何だったのだろう。今になって思えば、リーリエの「疲れた目」に何かを感じ取ったのかもしれない。
今、レオンハルトの目がリーリエを見つけた。
「聖女様!」
城壁の窓に立つ銀灰色の髪を、レオンハルトは見逃さなかった。
「ご無事でしたか!」
リーリエは答えなかった。ただ、レオンハルトの顔を見つめた。
レオンハルトの表情が微かに変わった。驚いている。何に——リーリエの「状態」に。
衰弱していない。虐待の痕もない。顔色は教会にいた頃より良い。目の下の隈が薄くなり、頬に僅かだが血色がある。髪は整えられ——マリカが毎朝、梳いてくれる。黒い服も、教会の白い聖衣より温かそうだ。
囚われた聖女の姿には見えないだろう。
レオンハルトは一瞬戸惑い、それから表情を引き締めた。おそらく「洗脳されている可能性」を考えたのだ。教会で教わったのだろう——魔王は人の心を操ると。事実はもちろん違う。カインが操るのは花茶の温度くらいだ。
「聖女様、お迎えに参りました。教会に戻れば——」
「リーリエに用があるなら、まず俺を通せ」
カインが遮った。城壁の上から見下ろす深紅の瞳に、レオンハルトは剣の柄を握り直した。
「魔王。聖女を返してもらう」
「断る」
短い応酬。風が城壁を吹き抜け、カインの黒い外套とレオンハルトの白い外套が、それぞれの方向に翻った。
黒と白。魔王と騎士。二つの正義が対峙している。
リーリエはその二人を見つめていた。どちらも「聖女を守る」と言っている。けれどその意味は——同じではない気がした。
レオンハルトにとっての「守る」は、聖女を教会に戻すこと。
カインにとっての「守る」は、聖女を教会から離すこと。
正反対の「守り方」が、一人の聖女を挟んでぶつかっている。
リーリエは窓枠を握った。
あなたが「救う」と呼ぶものは——本当に、救いなのだろうか。
風が窓から吹き込み、リーリエの銀灰色の髪を揺らした。遠くで馬がいななく声が聞こえる。白銀の旗が風にはためく音が、城壁を越えて届いた。
リーリエは窓枠を握る手に力を込めた。爪が白くなるまで。二つの「守り方」が目の前でぶつかっている。そしてリーリエ自身の中にも——かつてなかったものが芽生え始めていた。自分がどちらに立ちたいのか、考え始めている自分がいた。




