隠し事の代償
朝食の席が、いつもと違っていた。
マリカが出した果実のスープは温かく、果物の甘い香りが食堂に広がっている。リュカが焼いたパンは香ばしく、皮がぱりっとした音を立てて割れた。いつもと同じ味のはずだ。けれど空気が違う。マリカの笑顔が少し硬い。リュカの冗談が一つ少ない。ヴェルナーが席を外す回数が多い。
リーリエはスープの表面に映る自分の顔を見つめた。銀灰色の髪が湯気越しにぼやけている。
「お嬢、パンもう一枚いります?」
「いいえ、結構です」
「そうっすか。……旦那様、パンどうぞ」
「いらん」
カインがぶっきらぼうに答える。いつも通りに見える——いつも通りを装っている。けれどリーリエは気づいていた。カインの視線が、窓の外に向く回数が増えていることに。一口食べるごとに、ちらりと窓を見る。何かを待っているのか。何かを警戒しているのか。
朝食が終わり、リュカが皿を片づけ始めたとき、カインが口を開いた。
「リーリエ。話がある」
短い言葉だった。リュカの手が一瞬止まったが、すぐに何事もなかったように皿を重ねて出ていった。マリカも黙って下がった。二人とも、既に知っているのだろう。二人きりになった食堂は、急に広くなったように感じた。
「何でしょう」
「聖騎士団が来る」
カインの声は淡々としていた。感情を抑えている。リーリエにはわかった。この人が淡々としているときは、内側で激しく何かを感じているときだ。
「教会が、お前を取り戻しに来た」
リーリエは、スプーンを置いた。陶器の音が食堂に小さく響いた。
「……来るのですね」
自分でも驚くほど、穏やかな声だった。窓の外で風が木の枝を揺らし、枯れ葉が一枚、ガラスに当たって滑り落ちた。動揺はしていない——いや、以前の自分なら動揺すらしなかっただろう。「どうでもいい」で終わっていた。教会が来ようが来まいが、自分の命に意味はないのだから、誰に回収されても同じだった。
けれど今、「来るのですね」と呟いたとき、喉の奥に小さな引っかかりがあった。胸の奥が微かに冷えるような、ざらつくような感覚。
何だろう、これは。冷めかけた茶の匂いが鼻先に残り、カインの短い「美味い」が耳の奥でまだ鳴っている。胸の奥に小さな温もりが生まれていて、結界の灼熱とは全く違う熱だった。
「お前をどこにも行かせない」
カインが言った。椅子の上で身を乗り出し、深紅の瞳でリーリエを真っ直ぐに見ている。
「教会にも、どこにも」
「……それはあなたの都合では」
「ああ、俺の都合だ」
カインの深紅の瞳が、一切の逡巡なくリーリエを見据えた。
「俺がお前を手放したくない」
——手放したくない。
リーリエは一瞬、目を見開いた。
教会で聖女として過ごした二年間、「尊い」と言われたことは数えきれないほどあった。「崇高だ」「世界の柱だ」「聖女は人類の希望だ」と。大司教は祭壇の前でリーリエの手を取り、「あなたは世界で最も尊い存在です」と微笑んだ。聖職者たちは頭を垂れ、「聖女様」と囁いた。
けれど「手放したくない」と言われたことは、一度もなかった。
リーリエの手がテーブルの下で小さく握りしめられた。爪が掌に食い込む感触がある。尊いものは遠くに置かれる。崇高なものは冷たい祭壇の上に飾られる。教会にとって聖女は宝物だった。けれど宝物は、持ち主が必要に応じて使う道具にすぎない。祭壇に並べ、祈りを捧げさせ、結界の燃料にする。必要なとき出して、不要になれば仕舞う——いや、聖女は不要になることすら許されなかった。
「手放したくない」は、それとは違う。
道具に向ける言葉ではない。人に向ける言葉だ。
「……そうですか」
短い返事だった。以前のリーリエなら「ご勝手にどうぞ」と言っただろう。その言葉が浮かばなかった。唇の端まで来て、消えた。代わりに出てきたのは「そうですか」——同じ短さでも、温度が違うことに、リーリエ自身は気づいていない。
カインが立ち上がった。椅子が床を擦る音がした。大きな身体が食堂の空間を圧するように立ち上がり、窓からの光がカインの背中に影を落とした。
「城にいろ。外に出るな。——明日、来る」
「はい」
カインが食堂を出ていった。長い外套の裾が揺れて、扉が閉まる。大きな背中だった。その背中が何かを背負っていることを、リーリエはなんとなく感じていた。
一人残されたリーリエは、冷めかけた花茶に唇をつけた。
手放したくない。
その言葉が、喉の奥の引っかかりと重なった。
嫌なのだ。
教会に「戻れ」と言われることが——少し、嫌だと感じている。
嫌。
この感情は何だろう。教会にいた頃は何も感じなかった。連れ戻されても構わなかった。どこにいても同じだったから。痛みしかない世界の中で、場所に意味はなかった。
けれど今、この場所には——花茶の匂いがある。リュカの声がある。マリカの料理がある。フィルの温かい手がある。窓から差し込む朝の光がある。
そしてカインの——あの深紅の瞳が。
リーリエは花茶のカップを両手で包んだ。陶器の温もりが掌に伝わる。カップの中で花弁が一枚揺れ、湯気が鼻先を撫でた。窓辺の花瓶のエーデルフラウが朝の光を透かし、影が食卓に淡い模様を落としている。指先が少しだけ震えていることに、気づかなかった。
「……手放したくない、ですか」
誰にも聞こえない声で、繰り返した。
初めて言われた言葉だった。「崇高」でも「尊い」でもなく、「手放したくない」。まるでリーリエが、誰かにとって——大切な、ただのひとりの人間であるかのように。
窓の外では、雲が東から流れていた。風が変わり始めている。嵐が来る予感が、空の色に滲んでいた。朝の光はまだ明るいが、地平線の向こうに灰色の雲が低く垂れ込めている。
花茶の温もりが掌に伝わっている。カップの底に沈んだ花弁が、微かに揺れていた。この花茶も、いつまで飲めるのだろう——そんな考えが頭を過ぎり、リーリエは自分で自分に驚いた。「いつまで」を考えるということは、「ここにいたい」と思っているということだ。
聖騎士団が来る。教会が来る。あの冷たい日々が、追いかけてくる。
リーリエは花茶を飲み干した。底に沈んだ花弁が、カップの白い内壁に張りついていた。
まだ答えは出ない。けれど「手放したくない」という言葉が、胸のどこかに留まって離れなかった。温かい棘のように——刺さっていた。




