境界を越える者たち
報告は夜明け前に届いた。
執務室の窓の外はまだ暗く、星がいくつか残っている。蝋燭の炎だけが部屋を照らし、壁に積まれた古文書の山が不安定な影を落としていた。インクと蝋と古い紙の匂いが混ざり合い、夜更かしの執務室に特有の、密閉された空気が漂っている。
カインが執務室で古文書を読んでいると、扉を叩く音がした。静かだが速い——ヴェルナーだ。許可を出す前に扉が開く。ヴェルナーが礼を省略するのは、城に来てから数えるほどしかない。それだけで、事態の重さが伝わった。
「旦那様。偵察ではありません」
ヴェルナーが眼鏡の位置を直しながら、簡潔に告げた。蝋燭の灯りに照らされた顔が、いつになく引き締まっている。
「正式な部隊です。旗を掲げています。教会の紋章——聖騎士団の十字剣」
カインは古文書を閉じた。ページに挟んでいた栞を抜き、静かに机の上に置いた。
「数は」
「三十名ほど。精鋭です。通常の兵ではなく、聖騎士団の本隊と見て間違いないかと」
「三十か」
多い。偵察にしては重すぎる。しかし攻城にしては軽すぎる。三十人で魔王城を落とせるとは、教会とて思うまい。つまり最初から力押しが目的ではない。交渉の姿勢を見せつつ、正規軍を差し向けたという事実そのもので圧力をかける腹だ。「教会は本気だ」という意思表示。世間に対しても、「魔王に囚われた聖女を救出する」という物語を公に広める狙いがある。
「本気で取りに来たということだな」
「はい。進軍速度から推測して、到着は明日の正午過ぎかと。街道沿いに堂々と進んでいます。隠す気がない——いえ、隠す必要がないと判断したのでしょう。聖騎士団が魔王に向かう行軍を、民は歓呼で見送るでしょうから」
「そうだろうな。俺は世間では悪役だ」
カインの声には自嘲が混じっていた。五百年間「魔王」として恐れられてきた男にとって、世間の評価は今さらだった。
椅子の背に身を預け、深紅の瞳が窓の外を見つめた。まだ暗い空に、星が幾つか残っている。あの星座——フェアシュテルンが西の空に傾きかけている。リーリエに教えた星座だ。
「——ヴェルナー」
「はい」
「城の防衛態勢を整えろ。外壁の結界を二重にしろ。従者たちには退避路を確認させておけ。地下の通路を点検して、いつでも使えるようにしておけ」
「承知しました。結界の二重化はヴェスタ殿にお願いしましょう。あの方なら半日で終わります」
カインが頷き、ヴェルナーが踵を返しかけた。
「待て」
「はい」
「リーリエにはまだ言うな。俺から伝える」
「畏まりました。……旦那様」
「何だ」
「お気をつけて」
ヴェルナーの声は穏やかだった。五十年仕えた従者の、静かな忠義が滲んでいた。カインは答えず、ただ頷いた。
扉が閉まり、足音が遠ざかった。
カインは立ち上がり、窓辺に歩いた。窓を開けると、冷たい夜明け前の風が頬を撫でた。遠い東の空が、ほんの僅かに白みかけている。晩秋の空気は冷たく、吐く息が微かに白い。
マリカが朝食の準備のために廊下を歩いてくるのが聞こえた。いつもの時間だ。いつもの足音。この城にはリズムがある。マリカの足音で朝が始まり、フィルの笑い声で昼が来て、リュカの「飯の時間っすよ」で夕方が来る。
そのリズムが脅かされようとしている。
「旦那様」
マリカが執務室の前で足を止めた。何かを察したのだろう——彼女の勘は鋭い。カインの気配の変化を、五十年かけて読み取る術を身につけている。
「リーリエ様は、まだお休みです」
「ああ」
「何か——あったのですか」
カインは一瞬、答えを迷った。だがマリカの不安そうな目に、嘘をつく気にはなれなかった。
「聖騎士団が来る。教会がリーリエを取り戻しに来た」
マリカの手が止まった。盆を持つ指が白くなった。
「リーリエ様を……」
「あいつには手を出させない。誰一人として」
声は静かだった。怒りは表に出さなかった。それは決意であり、事実であり、これから起きることの予告にすぎなかった。
「旦那様……」
「心配するな。いつも通り朝食を作ってやれ。あいつが好きな果実のスープを多めにな」
マリカが小さく頷いた。目に涙が滲んでいたが、盆を持ち直し、厨房に向かっていった。足取りは速い。彼女なりの覚悟を決めたのだろう。泣いている暇があったら、リーリエのために温かい朝食を作る。マリカはそういう人間だ。
再び一人になったカインは、執務室を出て城壁に向かった。
石段を上る。冷えた城壁の縁に手をついた。夜が明けていく。東の空が薄い紫に染まり、やがて金色の光が地平線を縁取り始めた。冷えた空気の中に、遠い軍靴の音はまだ聞こえない。しかし、来る。確実に来る。
五百年前のことを思い出す。
教会に追われたとき。あのときは一人だった。守るべき人はもういなかった。聖なる炉の前で、あの人の手が解けて——間に合わなかった。走っても、叫んでも、剣を振るっても。
失った後で走っても、追いつけるはずがなかった。
今は違う。
守るべき人が、この城にいる。
眠っている。毎朝、決まった時間に目を覚まし、花茶を一口飲んで、少しだけ目を細める。最近は庭の散歩が習慣になった。星の名前を覚え始めた。花の名前も。フィルの頭を撫でるようになった。リュカの料理に「美味しいです」と初めて言った日、リュカが厨房で泣いていた。
それだけの変化に、どれほどの日々が必要だったか。氷が一枚ずつ、薄い薄い一枚ずつ剥がれるように——ようやくここまで来た。
返す気はない。
リーリエを教会に返す気は、微塵もない。
あの子が死にたがりだと知っている。教会に戻れば、また苦痛の日々が始まると知っている。あの目に宿りかけた微かな光が、また消えることも知っている。
それを許すくらいなら——世界を敵に回す。
カインの左手が城壁を握りしめた。手袋の下で、古い紋章の痕跡が微かに疼いた。五百年前の契約の証。救えなかった人の——遺言。
「——来るなら来い」
カインは呟いた。城壁の向こう、まだ何も見えない地平線を見据えて。深紅の瞳に、夜明けの光が映り込んでいる。
「あの子は渡さない」
朝日が、魔王城の尖塔を照らし始めた。黒い石壁が金色に縁取られ、窓のガラスが光を弾く。城が目を覚ます。一日が始まる。
その中で、リーリエはまだ眠っている。銀灰色の髪が枕に広がり、薄い寝息を立てている。自分のために魔王が戦いを覚悟したことを、まだ知らないまま。




