嵐の予感
空気が変わったことに、リーリエは気づいていた。
朝の光がいつもと同じ角度で窓から差し込んでいるのに、城全体が微かに息を詰めているような感覚があった。見えるものは変わらない。けれど肌に触れる空気の質が——ほんの少しだけ、張り詰めている。
それは具体的な何かが変わったのではなく、城全体を覆う「温度」が変化した、という感覚だった。従者たちの足音がいつもより速い。巡回の頻度が増えている。マリカの笑顔がわずかに固い。リュカが冗談を言う回数が減った。
何かが起きている。
そして——それは、自分に関係がある。
リーリエにはわかっていた。教会で鍛えられた観察力は、空気の変化を正確に読み取る。結界の異常を感知するために培われた感覚が、城の異変を捉えている。
午後、庭園で花に水をやっていると、リュカが隣にしゃがんだ。
「お嬢」
「何ですか」
「今日のご飯、何がいいっすか」
「何でもいいです」
「それ、旦那様が聞いたら三時間悩むやつっすよ」
「三時間も」
「あの人、お嬢の食事にすげー真剣なんす。昨日も『リーリエが残した野菜は何だ、嫌いなのか、切り方が悪いのか』って俺に聞いてきたっすよ」
「……残したのは単に量が多かっただけです」
「でしょ? 言ったんすけどね」
リュカが笑った。しかし笑顔が——いつもより少しだけ、脆い。
「リュカ」
「はい?」
「何か隠していますね」
リュカの耳がぴんと立ち——すぐに髪で隠された。動揺を隠すために。
「え、何のことっすか」
「嘘が下手なのはカインさまだけではないようですね」
「俺は嘘ついてないっすよ!」
「目が泳いでいます」
リュカが唇を噛んだ。琥珀色の目が一瞬だけ曇り、すぐに笑顔に戻った。
「お嬢は鋭いっすね。……でも、大丈夫っすよ。旦那様がなんとかするっす」
「何を、なんとかするのですか」
リュカは答えなかった。立ち上がり、「ご飯の仕込みしてくるっす!」と言って走っていった。
リーリエは如雨露を置き、庭園のベンチに座った。
何かが起きている。従者たちは知っていて、リーリエだけが知らされていない。カインの命令だろう。「リーリエには知らせるな」と。
知らせないのは——守るためだ。わかっている。カインの保護はいつもそうだ。情報を遮断し、不安を取り除き、安全な場所に閉じ込める。
けれどリーリエは、閉じ込められることに慣れていた。教会もそうだった。地下の部屋に閉じ込め、外の世界を見せず、「あなたのため」と言って全てを決めた。
カインは教会とは違う。わかっている。けれど——
「カインさま」
夕食後、リーリエはカインを呼び止めた。
食堂に二人きり。マリカが片付けを終え、リュカが厨房に戻った後。
「何か起きていますね」
カインが立ち止まった。リーリエの目を見た。
嘘をつく余地がなかった。リーリエの薄い青紫の瞳は、全てを見透かしている。城の空気の変化も、従者たちの緊張も、カインの隠し事も。
「……聖騎士団が近づいている」
カインが言った。隠し通せないと判断したのだろう。
「教会の偵察部隊が、領域の境界を越えた。数日で——この城の近くまで来る」
リーリエは黙った。
聖騎士団。教会の剣。聖女を「保護」し、聖女を「管理」する組織。リーリエを連れ戻しに来る——つまり、そういうことだ。
「……私のせいですね」
呟いた。
「私がここにいるから」
カインが——
「お前のせいではない」
即答した。
間がなかった。リーリエの言葉が終わる前に、カインの否定が被さった。考える時間もなく、反射のように。身体が先に答えたかのような速さで。
「お前のせいではない。教会が来るのは、教会の都合だ。お前が存在することが理由ではない。お前は何も悪くない」
強い言葉だった。感情が乗っていた。いつもの素っ気なさはなく、一語一語に力が込められている。
リーリエは——目を伏せた。
「お前のせいではない」。
聖女として十五年を生きた。その間——全てがリーリエの「せい」だった。結界が薄くなるのは聖女の力が足りないせい。災厄が侵入するのは聖女の祈りが足りないせい。世界が危機に瀕するのは聖女の命が足りないせい。
全ての責任が、リーリエの肩に乗っていた。
誰も「お前のせいではない」と言ってくれなかった。教会の誰も。
「……そうですか」
リーリエが呟いた。
その二文字は、いつもの「そうですか」とは違っていた。声の奥に——温度があった。微かな、けれど確かな温度。
カインの言葉が——届いた。
リーリエの心の壁に、小さな穴を開けた。そこから温かいものが一滴だけ、染み込んだ。
「お前は何も悪くない」
カインが繰り返した。今度はもう少し静かに。しかし力は同じだ。
「俺が守る。聖騎士団が来ても、教会が何をしても。お前を渡さない」
「……大仰ですね」
「お前が大仰な存在だからだ」
同じ言葉。市場に行く日にも聞いた。あのときは軽口のように流したが——今は違う。カインの目が本気だった。
リーリエは顔を上げた。カインの深紅の瞳を見た。
「私は——」
何かを言いかけて、止めた。言葉が見つからなかったのではない。言葉が多すぎて、選べなかった。
「おやすみなさい、カインさま」
食堂を出た。廊下を歩き、部屋に戻った。
扉を閉め、壁にもたれた。
「お前のせいではない」。
その言葉を、胸の中で反芻した。何度も、何度も。噛みしめるように。
教会が来る。穏やかな日常が脅かされる。花に水をやり、本を読み、星の名前を覚えたこの日々が——終わるかもしれない。
怖い——とは、思わなかった。
けれど「嫌だ」とは——思った。
この日常が失われるのが、嫌だ。
いつから「嫌」と思えるようになったのだろう。何もかもがどうでもよかったはずなのに。死ねるなら死にたかったはずなのに。
壁のリュカの絵を見た。への字の口のリーリエ。机の上の花の髪飾り。庭園の花壇。書庫の本。星の名前。夜のお茶。雨の日の沈黙。カインの笑顔。
失いたくないものが——増えている。
「お前のせいではない」。
カインの声が、胸の奥で小さく光っていた。
嵐が来る。
けれどリーリエの手には、小さな灯りがあった。カインの言葉という灯りが。
それだけでは足りないかもしれない。嵐の前には、こんな灯りなど消し飛ぶかもしれない。
けれど——今は、ある。
それだけが確かなことだった。




