数百年の旅の終わり
リーリエが眠った。
小さな寝室に、静かな寝息が満ちている。窓の外は星空。月明かりが薄いカーテン越しに差し込んで、リーリエの銀灰色の髪を淡く照らしている。
カインは寝台の傍の椅子に座って、その寝顔を見ていた。眠るリーリエを見つめるのは——癖になっていた。魔王城にいた頃から。リーリエが眠っている間だけ、カインは自分の感情と正面から向き合えた。起きているときは照れが先に立つ。眠っているときだけ——素直になれた。
穏やかな顔だった。眉間に皺もなく、唇も閉じて、安らかに息をしている。聖女だった頃のリーリエは——眠っていても、眉間に皺が寄っていた。結界の負荷が睡眠中も途切れなかったから。今はもう、その皺はない。
カインは窓の外の星空に目を移した。
数え切れない星。
五百年間、何度見上げたかわからない星空だ。孤独な夜に。放浪の途上で。古文書を読み疲れて外に出た深夜に。いつも星は同じように輝いていた。世界が変わっても、人が死んでも、五百年が過ぎても——星は変わらなかった。
それが少しだけ、救いだった。
今夜もまた——星は変わらない。
けれど自分は、変わった。
五百年前のことを思い出す。
初代聖騎士。教会に仕え、神に祈り、剣を振るった日々。あの頃の自分は——真っ直ぐだった。正しいことを信じ、強い者が弱い者を守るのだと疑わなかった。
エルシェに出会った。
聖女として任命された少女。明るくて、聡明で、けれどどこか——悲しい目をしていた。自分の運命を知っていたのだと、後からわかった。
守ると誓った。聖騎士として。そして——それ以上の感情を自覚しながら。
守れなかった。
炉の扉が閉まった。エルシェの微笑みが、扉の向こうに消えた。手を伸ばしたが——届かなかった。
あの日、カイン・ヴェルトールは死んだ。聖騎士は死に、「魔王」が生まれた。教会に追放され、世界から切り離され、五百年の孤独が始まった。
長い旅だった。終わりが見えない旅だった。
古代の遺跡を探り、失われた文献を読み、世界中を歩いた。砂漠の果ての廃墟で夜を明かし、雪山の洞窟で古い碑文を解読し、海の底に沈んだ神殿の残骸を潜った。エルシェが遺したかもしれない手がかりを、一つ一つ追った。見つかるたびに希望を持ち、行き詰まるたびに絶望し、それでも——止まらなかった。
止まったら壊れると知っていたから。
いくつもの時代が過ぎた。人間の一生を何度も見送った。カインだけが取り残されて、世界だけが先に進んでいった。友と呼べる者はいなかった。五十年前にリュカを拾うまでは。
そして——あの日。
崖の上。
何がカインをあの場所に導いたのか、今でもわからない。偶然か。運命か。それとも——五百年の旅の全てが、あの瞬間のためにあったのか。
銀灰色の髪が風に舞っていた。白い聖衣が翻っていた。崖の縁から——少女が、落ちた。
身体が動いた。考えるより先に。伸ばした手が、細い腕を掴んだ。
引き上げて、顔を見た。
薄い青紫の瞳。虚ろで、焦点が合っていない。生きることを諦めた目。
エルシェと——似ていた。
いや。似ていなかった。エルシェは最後まで微笑んでいた。この少女は——何も感じていなかった。微笑みすらなかった。それが余計に——痛かった。
「助けなくてよかったのに」
そう言った少女を見て——カインは、自分の中で何かが動くのを感じた。贖罪か。同情か。あるいは——。
あの日から、旅が変わった。
魔王城にリーリエが来て、日常が生まれた。食事をして、言葉を交わして、時々笑って——ゆっくりと、リーリエの目に光が戻っていった。それを見ているのが——嬉しかった。
最初は贖罪だった。エルシェを救えなかった自分への罰。同じ過ちを繰り返さないための、義務感。
いつからだろう。贖罪では説明できなくなったのは。
やがて——贖罪では説明できなくなった。
リーリエが咳き込んだとき、心臓が止まるかと思った。リーリエが「ここにいたい」と呟いたとき、胸が痛んだ。リーリエが笑ったとき——息が止まった。
ああ、と思った。
これは贖罪じゃない。
リーリエを「リーリエ」として見ている。エルシェの代わりではなく。聖女としてではなく。一人の——大切な人として。
認めるのに——時間がかかった。贖罪の仮面を脱ぐことが怖かった。エルシェへの裏切りになるのではないかと。けれどリーリエが「あなたを見ている」と言ったとき——仮面が、剥がれた。
そこからは——早かった。
聖女制度の真実を知り、第三の道を見つけ、仲間が集まり、教会と戦い、炉の中でエルシェの魂と対話し——そして、終わった。
すべてが終わった。
超常的な寿命は消えた。五百年分の生命力を炉に注ぎ込んだ。深紅の瞳は薄れ、圧倒的な魔力は失われた。
普通の人間に戻った。
けれど——それは犠牲ではなかった。
解放だった。
五百年間、人間でいられなかった。人間の時間を生きられなかった。今——ようやく、人間に戻れた。限られた時間を、普通に生きる。老いて、衰えて、いつか死ぬ。それが——人間だ。
怖くはない。
五百年前なら怖かっただろう。エルシェを失った直後なら。孤独の中で、死だけが唯一の終着だった頃なら。けれど今は——隣に人がいる。共に老いて、共に時間を過ごして、いつか共に終わりを迎える。それは恐怖ではない。
むしろ——ようやく、という安堵がある。
カインはリーリエの寝顔に目を戻した。
穏やかな寝息。微かに開いた唇。銀灰色の髪が枕に広がっている。
ここにいる。
この人が、ここにいる。
五百年の旅の果てに辿り着いた場所は——聖なる炉でも、古代の遺跡でも、世界の果てでもなかった。小さな家の、小さな寝室の、椅子の上だ。眠っている人の隣で、静かに星を見ている。
それだけだ。
それだけが——五百年の答えだった。
「これが、俺の答えだ」
呟いた。声にならないほどの、小さな声で。
リーリエには聞こえていないだろう。聞こえなくていい。
カインは微笑んだ。
五百年間で——何度目の微笑みだろう。リュカに聞けば「旦那様が笑うのは、お嬢が来てからですよ」と言うだろう。きっと正しい。五百年間、笑うことを忘れていた。笑う理由がなかった。リーリエが来てから——少しずつ、口元が緩むようになった。最初は自覚がなかった。リュカに「旦那様、今笑ってましたよ」と指摘されて、初めて気づいた。
星が瞬いている。五百年変わらない星空。けれど今夜の星は——今までで一番、美しく見えた。
隣に、大切な人がいるから。
カインは椅子に深く腰掛けた。リーリエの寝顔を見つめたまま、静かに目を閉じた。
数百年の旅が——終わった。
明日もまた、朝が来る。リーリエが目を覚まし、カインが火起こしに苦戦し、リュカが朝食を届けに来て、ヴェルナーが呆れた顔で後片づけをする。何でもない一日が始まる。
それが——答えだ。
穏やかな夜だった。




