小さな家
朝の光で目が覚めた。
リーリエは寝台の中でしばらくぼんやりしていた。柔らかい毛布の感触。窓から差し込む陽光。小鳥の声。遠くでリュカが何か歌っている——おそらく朝食の準備をしながら。
聖女だった頃の朝は——痛みで始まった。左胸の紋章が脈打ち、全身が灼け、目覚めた瞬間から苦痛が始まる。骨の髄に熱い杭を打ち込まれるような鈍痛。息をするたびに肺が焦げる感覚。それが毎日だった。二年間。七百日以上。一日の例外もなく。
今は何もない。
ただ、光が暖かい。
起き上がって、窓を開けた。朝の空気が頬を撫でる。丘の上の小さな家。窓の外には畑が広がり、ヨハンが植えた花壇が色とりどりに咲いている。遠くに街の屋根が見える。煙突から煙が上がっている。人々が暮らしている。
台所から——何かが倒れる音がした。
「——くそ」
カインの声。
リーリエは部屋を出て、台所を覗いた。
カインが格闘していた。
竈の前にしゃがんで、火打石を打っている。何度も。火花は散るが、薪に火がつかない。超常的な魔力がなくなった今、火をつけるのは——普通の人間と同じ方法しかない。
「……つかん」
「手伝おうか?」
リーリエが声をかけた。
カインが振り返った。一瞬、ばつの悪そうな顔をして、すぐにいつものぶっきらぼうに戻った。
「いい。座ってろ」
「でも、もう十回くらい打ってない?」
「数えるな」
「数えてないわ。音が聞こえてたの」
カインが黙って火打石を打った。火花。薪は燃えない。
リーリエは台所に入って、カインの隣にしゃがんだ。
「ほら、こう。薪の下に細い枝を入れて、そこに火花を——」
「知ってる」
「知ってるのにできないの?」
「五百年間やってなかったんだ。感覚が——」
「五百年サボってたってこと?」
「魔力で火をつけてた」
「楽してたのね」
カインが不服そうに唇を結んだ。リーリエが細い枝を組み直して、火打石を構えた。数回打つと——小さな火が生まれた。
「ほら、ついた」
「……どこでそんな技術を」
「教会で習ったわ。修道女の基本よ」
カインが複雑な顔をした。五百年の戦士が十七歳の少女に火起こしで負けている。かつて単独で軍勢を退けた男が、竈の前でうなだれている。リーリエは笑いを堪えた。堪えきれなかった。
火が安定すると、カインが鍋を竈にかけた。粥を作るらしい。リュカの料理には遠く及ばないが、カインなりの——朝食を作ろうとしている。不器用に。
「水はこのくらいでいいか」
「多い」
「穀物は——」
「少ない」
「……お前が作れ」
「嫌よ。あなたが作って」
カインが渋々鍋をかき混ぜている。粥とも汁物ともつかない何かが出来上がった。
二人で食卓についた。カインが椅子を引いてリーリエを座らせた。無言で、自然に。こういう仕草だけは不器用じゃない。五百年間で身についた騎士の礼儀か、それとも——ただの癖か。
小さなテーブルに、質素な食器。魔王城の豪華な食堂とは比べものにならない。けれど——窓から朝の光が差し込んで、テーブルの上を照らしている。
リーリエは一口食べた。塩加減が少し強い。穀物が微妙に硬い。けれど——温かかった。
「……食べられなくはないな」
カインが自分の粥を一口啜って言った。自分の料理を自分で評価する姿が、妙に可愛らしかった。
「普通に美味しいわ」
「お前は味覚が寛大すぎる」
「あなたが作ってくれたから。——それだけで、美味しいの」
カインの匙が止まった。耳が赤い。
「……食え。冷める」
朝食の後、リーリエは窓辺に移った。
椅子を引いて、日の当たる場所に座った。膝に毛布をかけて、頬杖をついて、外を眺める。畑に風が渡っている。花が揺れている。遠くの山の稜線が、朝日に青く霞んでいる。
何もしない時間。
かつては——こんな時間は存在しなかった。聖女として覚醒してからの二年間、リーリエの時間はすべて結界の維持に費やされていた。苦痛に耐え、意識を保ち、灼ける身体を引きずって一日を過ごす。「何もしない」という贅沢は、許されなかった。
今は——ただ、陽だまりの中にいる。
暖かい。痛くない。穏やかだ。身体の内側から灼かれる感覚がない。紋章の脈動がない。結界の重荷がない。ただ——光が、暖かい。それだけ。
「……幸せだな」
独りごちた。声に出すつもりはなかった。けれど自然と、言葉が零れた。
幸せだ。
こんな単純なことが——奇跡のように嬉しい。目頭が熱くなった。泣くようなことではない。ただ光が暖かいだけだ。けれど——泣きそうになった。
午後は家の周りを歩いた。ヨハンが花壇の手入れをしているのを眺めたり、クラーラが洗濯物を干しているのを手伝ったり、マルタの焼き菓子を味見したり。
何をしても、何もしなくても、許される時間。聖女だった頃には存在しなかった時間。教会では常に「務め」があった。祈りの時間、瞑想の時間、結界維持の時間。すべてが管理され、すべてが「世界のため」に捧げられていた。自分のための時間は——一秒もなかった。
今は——すべてが、自分の時間だ。
夕方になった。
カインが台所から出てきた。
「散歩するか」
「また? 朝も散歩したのに」
「嫌か」
「嫌じゃないわ。あなたと歩くの、好きよ」
カインが視線を逸らした。耳が赤い。いつものことだ。こういう素直な言葉には免疫がない。
二人で家の周りの野道を歩いた。丘の斜面を下り、麦畑の脇を抜け、小川のほとりを歩いた。小川の水がきらきらと夕日を反射している。魚が跳ねた。水面に波紋が広がる。リーリエが足を止めて、しゃがんで水面を覗き込んだ。透き通った水の底に、小石が並んでいる。きれいだ、と思った。こんな小さなことが、嬉しい。
夕日が地平線に傾いている。空がオレンジ色に燃えている。
カインが立ち止まった。夕日を見ていた。
「明日も、こうして歩くか」
「ええ。明日も、明後日も」
明日。
明後日。
その先の日々。
リーリエにとって、「明日」は長い間——なかったものだった。
聖女として覚醒してからの二年間、明日は「また灼ける日」でしかなかった。希望のない、ただの延長線。崖の上に立ったとき、リーリエは「明日」を捨てようとした。もう明日は要らないと。
今は——明日がある。
何も特別ではない、穏やかな明日。朝起きて、火を起こして、ご飯を食べて、窓辺で日向ぼっこをして、散歩をする。それだけの明日。
けれどそれが——二人にとって最大の奇跡だった。
超常的な力はもうない。数百年の寿命もない。魔王の城も、聖女の紋章も、結界の重荷も、何もない。
あるのは——小さな家と、隣にいる人と、明日。
夕日が沈んでいく。空の色が、橙から紫に変わっていく。
「帰ろう」
カインが言った。
「ええ」
リーリエが応えた。
丘の上の小さな家に、灯りが見えた。リュカが夕食の支度を始めたのだろう。窓から温かい光が漏れている。
二人は——帰った。
何でもない一日。何でもない夕暮れ。何でもない帰り道。
それが——幸せだった。




