↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

346/350

小さな家

 朝の光で目が覚めた。


 リーリエは寝台の中でしばらくぼんやりしていた。柔らかい毛布の感触。窓から差し込む陽光。小鳥の声。遠くでリュカが何か歌っている——おそらく朝食の準備をしながら。


 聖女だった頃の朝は——痛みで始まった。左胸の紋章が脈打ち、全身が灼け、目覚めた瞬間から苦痛が始まる。骨の髄に熱い杭を打ち込まれるような鈍痛。息をするたびに肺が焦げる感覚。それが毎日だった。二年間。七百日以上。一日の例外もなく。


 今は何もない。


 ただ、光が暖かい。


 起き上がって、窓を開けた。朝の空気が頬を撫でる。丘の上の小さな家。窓の外には畑が広がり、ヨハンが植えた花壇が色とりどりに咲いている。遠くに街の屋根が見える。煙突から煙が上がっている。人々が暮らしている。


 台所から——何かが倒れる音がした。


「——くそ」


 カインの声。


 リーリエは部屋を出て、台所を覗いた。


 カインが格闘していた。


 竈の前にしゃがんで、火打石を打っている。何度も。火花は散るが、薪に火がつかない。超常的な魔力がなくなった今、火をつけるのは——普通の人間と同じ方法しかない。


「……つかん」


「手伝おうか?」


 リーリエが声をかけた。


 カインが振り返った。一瞬、ばつの悪そうな顔をして、すぐにいつものぶっきらぼうに戻った。


「いい。座ってろ」


「でも、もう十回くらい打ってない?」


「数えるな」


「数えてないわ。音が聞こえてたの」


 カインが黙って火打石を打った。火花。薪は燃えない。


 リーリエは台所に入って、カインの隣にしゃがんだ。


「ほら、こう。薪の下に細い枝を入れて、そこに火花を——」


「知ってる」


「知ってるのにできないの?」


「五百年間やってなかったんだ。感覚が——」


「五百年サボってたってこと?」


「魔力で火をつけてた」


「楽してたのね」


 カインが不服そうに唇を結んだ。リーリエが細い枝を組み直して、火打石を構えた。数回打つと——小さな火が生まれた。


「ほら、ついた」


「……どこでそんな技術を」


「教会で習ったわ。修道女の基本よ」


 カインが複雑な顔をした。五百年の戦士が十七歳の少女に火起こしで負けている。かつて単独で軍勢を退けた男が、竈の前でうなだれている。リーリエは笑いを堪えた。堪えきれなかった。


 火が安定すると、カインが鍋を竈にかけた。粥を作るらしい。リュカの料理には遠く及ばないが、カインなりの——朝食を作ろうとしている。不器用に。


「水はこのくらいでいいか」


「多い」


「穀物は——」


「少ない」


「……お前が作れ」


「嫌よ。あなたが作って」


 カインが渋々鍋をかき混ぜている。粥とも汁物ともつかない何かが出来上がった。


 二人で食卓についた。カインが椅子を引いてリーリエを座らせた。無言で、自然に。こういう仕草だけは不器用じゃない。五百年間で身についた騎士の礼儀か、それとも——ただの癖か。


 小さなテーブルに、質素な食器。魔王城の豪華な食堂とは比べものにならない。けれど——窓から朝の光が差し込んで、テーブルの上を照らしている。


 リーリエは一口食べた。塩加減が少し強い。穀物が微妙に硬い。けれど——温かかった。


「……食べられなくはないな」


 カインが自分の粥を一口啜って言った。自分の料理を自分で評価する姿が、妙に可愛らしかった。


「普通に美味しいわ」


「お前は味覚が寛大すぎる」


「あなたが作ってくれたから。——それだけで、美味しいの」


 カインの匙が止まった。耳が赤い。


「……食え。冷める」


 朝食の後、リーリエは窓辺に移った。


 椅子を引いて、日の当たる場所に座った。膝に毛布をかけて、頬杖をついて、外を眺める。畑に風が渡っている。花が揺れている。遠くの山の稜線が、朝日に青く霞んでいる。


 何もしない時間。


 かつては——こんな時間は存在しなかった。聖女として覚醒してからの二年間、リーリエの時間はすべて結界の維持に費やされていた。苦痛に耐え、意識を保ち、灼ける身体を引きずって一日を過ごす。「何もしない」という贅沢は、許されなかった。


 今は——ただ、陽だまりの中にいる。


 暖かい。痛くない。穏やかだ。身体の内側から灼かれる感覚がない。紋章の脈動がない。結界の重荷がない。ただ——光が、暖かい。それだけ。


「……幸せだな」


 独りごちた。声に出すつもりはなかった。けれど自然と、言葉が零れた。


 幸せだ。


 こんな単純なことが——奇跡のように嬉しい。目頭が熱くなった。泣くようなことではない。ただ光が暖かいだけだ。けれど——泣きそうになった。


 午後は家の周りを歩いた。ヨハンが花壇の手入れをしているのを眺めたり、クラーラが洗濯物を干しているのを手伝ったり、マルタの焼き菓子を味見したり。


 何をしても、何もしなくても、許される時間。聖女だった頃には存在しなかった時間。教会では常に「務め」があった。祈りの時間、瞑想の時間、結界維持の時間。すべてが管理され、すべてが「世界のため」に捧げられていた。自分のための時間は——一秒もなかった。


 今は——すべてが、自分の時間だ。


 夕方になった。


 カインが台所から出てきた。


「散歩するか」


「また? 朝も散歩したのに」


「嫌か」


「嫌じゃないわ。あなたと歩くの、好きよ」


 カインが視線を逸らした。耳が赤い。いつものことだ。こういう素直な言葉には免疫がない。


 二人で家の周りの野道を歩いた。丘の斜面を下り、麦畑の脇を抜け、小川のほとりを歩いた。小川の水がきらきらと夕日を反射している。魚が跳ねた。水面に波紋が広がる。リーリエが足を止めて、しゃがんで水面を覗き込んだ。透き通った水の底に、小石が並んでいる。きれいだ、と思った。こんな小さなことが、嬉しい。


 夕日が地平線に傾いている。空がオレンジ色に燃えている。


 カインが立ち止まった。夕日を見ていた。


「明日も、こうして歩くか」


「ええ。明日も、明後日も」


 明日。


 明後日。


 その先の日々。


 リーリエにとって、「明日」は長い間——なかったものだった。


 聖女として覚醒してからの二年間、明日は「また灼ける日」でしかなかった。希望のない、ただの延長線。崖の上に立ったとき、リーリエは「明日」を捨てようとした。もう明日は要らないと。


 今は——明日がある。


 何も特別ではない、穏やかな明日。朝起きて、火を起こして、ご飯を食べて、窓辺で日向ぼっこをして、散歩をする。それだけの明日。


 けれどそれが——二人にとって最大の奇跡だった。


 超常的な力はもうない。数百年の寿命もない。魔王の城も、聖女の紋章も、結界の重荷も、何もない。


 あるのは——小さな家と、隣にいる人と、明日。


 夕日が沈んでいく。空の色が、橙から紫に変わっていく。


「帰ろう」


 カインが言った。


「ええ」


 リーリエが応えた。


 丘の上の小さな家に、灯りが見えた。リュカが夕食の支度を始めたのだろう。窓から温かい光が漏れている。


 二人は——帰った。


 何でもない一日。何でもない夕暮れ。何でもない帰り道。


 それが——幸せだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。