もう魔王城じゃないのに
魔王城は——変わっていなかった。
数日ぶりに戻ると、黒い城壁はそのまま聳えていて、庭の薬草園は手入れが行き届いていて、台所からは何かを煮込む匂いが漂っていた。まるで何事もなかったかのように。世界を揺るがす戦いがあったことなど嘘のように。
リーリエは城門をくぐりながら、思わず笑った。
「ただいま」
声が自然に出た。
「お帰りなさいませ」
ヴェルナーが出迎えた。銀縁眼鏡の奥の目は冷静そのもの。いつもと変わらない佇まい。世界が変わっても、この人は変わらない。
「お嬢ー! 旦那様ー! おかえりー!」
廊下の向こうからリュカが走ってきた。栗色の髪をゆるく結んで、袖をまくった白シャツ姿。こちらも変わらない。むしろ変わりようがない。世界が変わっても、この従者のお気楽さは宇宙の定数のように不変だ。
「飯まだでしょ? 今ちょうど煮込み作ってたんすよ。お嬢の好きなやつ。根菜たっぷりの」
「ありがとう、リュカ。いい匂いがしてた」
「でしょ! 旦那様のぶんもありますよ。多めに作ったんで」
カインが無言で頷いた。ぶっきらぼうだが、それがこの男の「ありがとう」だ。リュカも五十年の付き合いで理解している。
食堂に通された。魔王城の食堂は大きい。長いテーブルに椅子がずらりと並んでいるが、使うのはいつも端の三席だけだ。カインとリーリエとリュカ。ヴェルナーは食事中は給仕に徹するので、座らない。
食事を終えて、リーリエは食堂の窓から庭を眺めた。ヨハンが薬草園の手入れをしている。マルタが洗い物をしている。城の中を小さな魔族たちが忙しそうに行き来している。いつもの光景。戦いの前も、戦いの後も、何も変わらない光景。
「もう魔王城じゃないのにね」
リーリエが呟いた。
「は?」
リュカが怪訝な顔をした。
「だって、カインはもう魔王じゃないでしょう? ここも、もう魔王城じゃないわ」
「そうっすけど——別に、名前なんてどうでもよくないすか? 城は城っすよ。俺たちが住んでるから城なんすから」
妙に説得力があった。
食事が済んだ後、カインが切り出した。
「話がある」
リュカが身構えた。カインが「話がある」と言うとき、ろくなことがない。五十年の経験則だ。
「俺たちは——小さな家で暮らすことにした」
沈黙。
ヴェルナーの眼鏡が光った。
リュカの口が開いた。閉じた。また開いた。
「……は?」
「この城は大きすぎる。二人で暮らすには持て余す。街の近くに小さな家を借りて——」
「ちょっと待ってください旦那様」
ヴェルナーが一歩前に出た。冷静沈着なはずの従者長の声が、微かに震えていた。
「私もついていきます」
即答だった。
「来なくていい」
「参ります」
「いらん」
「問答は不要です。これは報告であり、許可の申請ではございません」
カインが眉をひそめた。リーリエが口元を押さえて笑いを堪えている。
「俺も行くっす!」
リュカが手を挙げた。
「お前もいらん」
「旦那様が料理できないのに、誰がお嬢にご飯作るんすか」
「……俺が作る」
「旦那様、この前卵を三十個割ってオムレツ一つも作れなかったじゃないすか」
「あれは卵の質が悪かった」
「卵のせいにしないでください」
リーリエが声を出して笑った。堪えきれなかった。
廊下の向こうから、小柄な魔族の従者たちが顔を覗かせた。掃除係のマルタ、庭師のヨハン、洗濯番のクラーラ。
「わたしたちも行きます!」
「お庭の手入れは任せてください!」
「お洗濯物、誰がやるんですか!」
次々と名乗りが上がる。カインの顔が険しくなっていく。
「全員来なくていい。小さな家だと言っているだろう。全員入るわけがない」
「なら、お家の周りに住みます」
ヴェルナーが平然と言った。
「……何?」
「お家の周りに、小さな住居を建てます。皆で」
「勝手に建てるな」
「建てます」
カインが頭を抱えた。リーリエが涙を浮かべるほど笑っている。
リュカが目を輝かせた。ヴェルナーの眼鏡が光った。マルタが手を叩いた。ヨハンが鍬を振り上げた。城中が——沸いた。
カインが「だから来なくていいと言っているだろう」と声を荒げた。リーリエが声を出して笑った。
結局——そうなった。
街の近くの丘に、小さな家を見つけた。二人で暮らすにはちょうどいい大きさの、石造りの家。庭があり、井戸があり、窓から畑が見える。質素で、温かい家。
引っ越しの日。
小さな家に荷物を運び入れたリーリエとカインが、窓から外を見て——絶句した。
家の周りに、小さな小屋がいくつも建ち始めていた。
ヴェルナーが指揮を取り、リュカが木材を運び、マルタが幕を張り、ヨハンが花壇を作り、クラーラが洗濯紐を張っている。
「……何がどうしてこうなった」
カインが呻いた。頭を抱えて天を仰いだ。「小さな家」が「小さな集落」になっている。ヴェルナーが描いた配置図によれば、効率的に動線を確保しつつ、全員の住居が収まるらしい。計画的だ。即興で建てているようでいて、ヴェルナーの設計は完璧だった。
リーリエは窓辺に頬杖をついて、笑っていた。
「いいじゃない。賑やかで」
「小さな家って言っただろう。小さな村ができてるぞ」
「あなたが拾った人たちよ。五十年前にリュカを拾ったように、ヴェルナーを迎えたように。みんなあなたが集めた家族じゃない」
カインが黙った。
窓の外では、リュカがマルタと何か言い合いながら笑っている。ヴェルナーが図面を広げて効率的な配置を計算している。ヨハンが花の苗を抱えて駆け回っている。
魔王城にいた頃と——何も変わらない。
場所が変わっただけだ。人が変わっていない。日常が変わっていない。
「来なくていいと言ったのに」
カインの声は——柔らかかった。
「それが家族ってものでしょう」
リーリエが言った。
カインは何も言わなかった。窓の外を見つめたまま、口元が——ほんの少しだけ、緩んでいた。
夕方。
小さな家の前に、長いテーブルが出された。リュカが料理を並べ、ヴェルナーが食器を揃え、全員が席についた。魔王城の大食堂に比べれば狭いが、全員の顔が見える。声が届く。笑い声が重なる。
「旦那様、パン取ってくださいっす」
「自分で取れ」
「遠いんすよ。旦那様の方が腕長いんだから」
「甘えるな」
言いながらパンを取って渡すカイン。リュカがにやりと笑う。お決まりのやりとり。
「お嬢、スープおかわりいります?」
「ありがとう。もらうわ」
「お嬢は素直でいいっすねえ。旦那様も見習ってほしいっす」
「黙って食え」
リーリエが笑った。
変わらない。場所が変わっても、肩書きが変わっても、世界が変わっても——この日常は変わらない。
魔王城ではなく、小さな家の前で。けれど同じ人たちと、同じ食卓を囲んで、同じように笑っている。
これが——帰る場所だ。
リーリエはリュカの隣に座って、スープをおかわりした。温かかった。リュカの作るスープは、いつも温かい。魔王城で初めて飲んだときから、ずっと。
あのとき——初めて「美味しい」と思った。凍結していた感情に、最初のひびを入れたのは、このスープだった。
最初から最後まで、変わらなかった、温かい場所。




