魔王の名が消える日
灰の聖堂の大広間に、人々が集まっていた。
聖騎士団、教会関係者、各地の代表者、市民たち。広間は戦いの痕跡が残っているものの、瓦礫は片づけられ、壇上には新しい演台が置かれていた。かつて大司教が君臨した壇上に、レオンハルトが立っている。その背後には、書き直された歴史書の巻物が広げられていた。
カインは広間の最後列にいた。
人混みが苦手だ。五百年の孤独は、群衆の中に立つことを——居心地の悪いものにしていた。人々の声がざわめいて、視線があちこちを行き交って、身体と身体の距離が近い。こそりと抜け出したいのが本音だが、リーリエが隣にいるので動けない。リーリエの袖がカインの外套に触れている。その僅かな接触が、カインをこの場に繋ぎ止めている。
「これより、教会は正式に宣言します」
レオンハルトの声が広間に響いた。張りのある、明瞭な声。戦場で兵を率いた声だ。
「初代聖騎士カイン・ヴェルトールの名誉を回復する」
広間がざわめいた。「カイン・ヴェルトール」——その名を知る者は少ない。人々が知っているのは「魔王カイン」だ。人類の敵。教会が五百年間語り続けてきた、恐ろしい魔王の名。
「約五百年前、教会は初代聖騎士を追放し、その名を歴史から抹消しました。聖女の犠牲を止めようとした正義の行いを『不敬』と断じ、英雄を『魔王』に貶めた。これは教会の——最も重い罪の一つです」
レオンハルトの声には感情が滲んでいた。聖騎士団には「初代団長」の伝承が断片的に残っている。聖女を守り、剣を振るい、理想を体現した騎士。レオンハルトはその伝承を仰ぎ見て育った。初代聖騎士のように聖女を守る騎士になる——それが、少年時代からの夢だった。
その理想の騎士が——魔王と呼ばれていた男だった。
知ったときの衝撃は、今も忘れていない。
「『魔王』の呼称は、冤罪です。歴史書を訂正し、初代聖騎士としての真実の記録を残します。カイン・ヴェルトールは——英雄です。聖女を守り、聖女の犠牲を止めるために戦った、真の聖騎士です」
歓声が上がった。
拍手が広間に満ちた。最初はまばらだった拍手が、波のように広がっていく。五百年間の冤罪が晴れる瞬間。歴史が正される瞬間。
カインは——何も感じなかった。
いや。何も感じないわけではない。ただ——「どうでもいい」に近い感覚だった。名誉。英雄。初代聖騎士。どれも、今の自分には遠い言葉だ。五百年前の自分の肩書きであり、五百年間の旅の出発点ではあるが——今の自分を表す言葉ではない。
今の自分は——ただの、カインだ。
「そんなことは、どうでもいい」
口の中で呟いた。
「え?」
リーリエが隣で目を丸くした。歓声と拍手の中でも、リーリエにはカインの声が聞こえたらしい。この距離で、この声量で。よく聞こえるものだ。いや——リーリエはいつも、カインの小さな声を聞き逃さない。
「名誉回復。どうでもいいと思って」
「……五百年も冤罪を着せられてたのに?」
「ああ。どうでもいい」
リーリエが呆れた顔をした。けれどすぐに——小さく笑った。この男が、本気でそう言っていることがわかったから。五百年の冤罪が晴れるよりも大切なことが、この男にはある。
「じゃあ、何が大事なの?」
何気ない問いだった。しかしカインの足が止まった。
視線が泳いだ。壁を見て、天井を見て、床を見て——最後にリーリエを見た。そして目を逸らした。耳が赤い。首筋まで赤い。
「……お前がここにいることだ」
小さな声だった。歓声にかき消されそうなほどの。聞き取れないほどの。けれどリーリエには——確かに聞こえた。
リーリエの顔が、赤くなった。
耳まで。首まで。頬が熱い。心臓がうるさい。
「っ——」
言葉が出なかった。三百五十話近くこの男の隣にいて、不器用な優しさには慣れたつもりだった。「食え」「寝ろ」「死ぬな」という命令口調の裏にある心配には慣れた。けれど——こういう不意打ちは、いつまで経っても慣れない。五百年生きた男が、名誉回復よりも隣にいることが大事だと言う。
「……忘れろ」
「忘れないわ」
「忘れろと言っている」
「絶対に忘れない。一生覚えてる」
「一生は長いぞ」
「あなたの五百年に比べたら短いわ。でも——あなたの残りの人生と同じくらいの長さよ。普通の人間として」
カインが息を呑んだ。そうだ。もう五百年は生きない。普通の人間の寿命で、隣にいる人と同じだけの時間を生きる。それは——怖いことではなかった。
二人とも顔が赤い。広間では歓声と拍手が続いている。名誉回復の主役が最後列で赤面していることに、幸い誰も気づいていなかった。
式典が進んだ。
レオンハルトの部下が巻物を広げ、訂正箇所を一つ一つ読み上げていった。歴史書の訂正が読み上げられた。「魔王カイン」の項が抹消され、「初代聖騎士カイン・ヴェルトール」の項が新たに記される。教会が五百年間の冤罪を——公式に、認めた。記録に残した。もう二度と、書き換えられないように。
カインは式典が終わるまで、最後列から動かなかった。
式後、レオンハルトが歩み寄ってきた。
「カイン殿。壇上に上がっていただければよかったのですが」
「断る。人前は苦手だ」
「五百年間一人で戦ってきた方が、人前が苦手というのも——微笑ましいですな」
「微笑ましいは余計だ」
レオンハルトが笑った。右頬の刀傷が動く。それからまっすぐにカインを見て、言った。
「初代聖騎士の名は——聖騎士団が守ります。あなたの名が、二度と汚されることはない」
カインは黙ってレオンハルトを見返した。琥珀色の目。嘘がつけない目。五百年前の自分もこういう目をしていただろうか。信念だけを武器に、真っ直ぐに前を見る騎士の目。
「……頼んだ」
それだけ言って、カインは踵を返した。
広間を出ると、午後の陽光が目に沁みた。眩しかった。五百年間、暗い場所に慣れすぎた。城の奥で古文書を読み、洞窟の中で遺跡を探り、夜の闇の中を一人で歩いた。光の中に立つことに——まだ、慣れていない。
リーリエが後からついてきた。
「カイン」
「ん」
「『カイン』って呼ぶね。これからも」
カインが振り返った。
「初代聖騎士とか、英雄とか、そういうのじゃなくて。ただの『カイン』って」
リーリエの微笑み。目尻が下がる、本当の笑み。あの虚ろな瞳の少女が、こんな笑みを見せるようになった。三百五十話の旅の中で、少しずつ、少しずつ。
カインは——少しの間、黙っていた。
リーリエの笑みを見つめていた。
そして。
「……お前にそう呼ばれるのが、一番いい」
小さな声で。視線を逸らしながら。
世界にどう呼ばれるかより、この人にどう呼ばれるか。五百年の冤罪が晴れることより、隣にいる一人の声の方が——ずっと、大事だった。
リーリエが笑った。声を出して笑った。
カインも——口元だけ、微かに笑った。
名誉は回復した。歴史は正された。「魔王」の名は消え、「初代聖騎士」の名が戻った。
けれどカインにとって——本当に大切なのは、どの名前でもない。
隣で「カイン」と呼んでくれる、一人の声だけだった。




