あの崖へ
ある朝、リーリエが言った。
「行きたい場所があるの」
カインが朝食の皿を片づけながら振り返った。最近は片づけも自分でする。リュカが「旦那様が家事してる……」と感涙していたのが数日前のことだ。
「どこだ」
「あの崖」
カインの手が止まった。
あの崖。物語の始まりの場所。リーリエが身を投げ、カインが腕を掴んだ場所。二人の旅が始まった場所。
カインは一瞬、眉をひそめた。記憶が蘇る。崖の縁に立つ白い聖衣。風に舞う銀灰色の髪。落ちていく身体。掴んだ腕の細さ。あまりにも軽かった体重。「助けなくてよかったのに」という声。薄い青紫の瞳に映った虚無。
けれど——リーリエの顔を見た。
虚ろな目はそこにない。焦点の合わない瞳も、感情の凍結した笑みも、どこにもない。代わりにあるのは——穏やかで、けれど芯の通った表情。何かを確かめに行こうとしている目。前を向いている目。
カインは何も言わず、頷いた。
「行くか」
「ええ」
二人で家を出た。
リュカが門の前で見送った。「行ってらっしゃい。夕飯までに帰ってくださいよ。今日は旦那様の好きなの作るんで」。いつも通りの声。いつも通りの笑顔。カインが「わかった」と返し、リーリエが「ありがとう」と手を振った。
ヴェルナーが門の脇に立って、黙って頭を下げた。何も聞かない。どこに行くかも、なぜ行くかも。ただ送り出す。それがこの従者長の流儀だ。
丘を下り、街を抜け、野を越えた。
かつてならカインが飛んで数分の距離を、二人は歩いた。超常的な力はもうない。ただの人間の足で、一歩一歩、大地を踏みしめて進んだ。麦畑の脇を通り、林を抜け、草原を横切った。靴底に草の感触がある。空には雲が流れている。陽光が暖かい。
道中、ほとんど話さなかった。
けれど沈黙は——居心地がよかった。かつてのような重苦しい沈黙ではない。魔王城に来たばかりの頃、リーリエとカインの間にあった沈黙は——距離だった。二人の間に横たわる、超えられない壁。今の沈黙は——違う。何も言わなくても伝わるものがある沈黙。言葉がなくても繋がっている安心感。並んで歩く足音だけが、二人の会話だった。
午後になって、崖が見えた。
断崖。深い谷。白い霧が谷底に渦巻いている。
同じ場所だ。
リーリエの足が一瞬、遅くなった。
記憶が——押し寄せてきた。あの日の記憶。白い聖衣。灼ける身体。「もう、いいですよね」と呟いた自分の声。足を前に出した瞬間の、恐怖のなさ。恐怖すら感じる力が残っていなかった、あの空虚。
けれど——足は止まらなかった。
風が吹いた。髪を揺らす風。あの日と同じ風。崖の縁の石が、あの日と同じように風化して脆くなっている。谷底は深く、底が見えない。白い霧がゆるやかに渦を巻いている。
リーリエは崖の手前で足を止めた。
見つめた。
あの日、自分が立っていた場所を。
あの日は——何も見えなかった。景色が灰色だった。空も、谷も、風も、すべてが灰色だった。色がなかった。世界から色が抜け落ちていた。痛みだけが唯一の感覚で、それ以外のすべてが——灰色だった。
今は——違う。
空が青い。深い、透き通った青。あの日と同じ空のはずなのに、こんなにも鮮やかに見える。雲が白く流れている。崖の縁に、小さな草が生えている。あの日には気づかなかった草。石の隙間から伸びる、か細い緑。風が草を揺らしている。野花が一輪、崖の脇に咲いている。黄色い小さな花。
美しい、とリーリエは思った。
こんなに美しい場所だったのだ。谷を渡る風が運ぶ草の匂い。遠くの山に架かる薄い虹。崖の岩肌に張り付く苔の緑。すべてが——生きている。この世界は、生きている。
あの日は——見えなかった。見る力が、残っていなかった。
リーリエは崖の縁に歩み寄った。
カインが一瞬、身体を硬くした。五百年の戦士の反射。反射的に手を伸ばしかけて——止めた。リーリエの横顔を見て。その表情に、あの日の虚ろさは——欠片もない。
リーリエは崖の縁に立った。
眼下に谷が広がっている。白い霧が渦を巻いている。遠くに山々が連なり、その向こうに平野が続いている。街の屋根が小さく見える。煙突から煙が上がっている。人々が暮らしている。万の祈りで守られた世界で。
風が下から吹き上げて、銀灰色の髪を空に舞わせた。
あの日と同じ光景。
けれど——まったく違う。
あの日は飛び降りるために立った。今は景色を見るために立っている。あの日は風が冷たかった。今は風が心地よい。あの日は何も感じなかった。今は——胸が一杯だ。目に映るものすべてが美しくて、鮮やかで、生きていて。
カインが隣に並んだ。
黙って。自然に。呼ばれてもいないのに、当たり前のように隣に来た。
同じ崖の上に、二人が立っている。
あの日、カインは崖の縁に立ってリーリエの腕を掴んだ。「お前が死ぬと世界が終わる。だから俺の隣にいろ」と言った。命令だった。世界を守るための、命令。
今は——二人が並んで立っている。掴む側と掴まれる側ではなく。救う者と救われる者ではなく。命令する者と従う者ではなく。対等に、同じ場所に、同じ方向を向いて。
風が吹いた。二人の髪が揺れた。暗褐色の髪と、銀灰色の髪が、風の中で交差した。
リーリエはあの日のことを思い出した。
崖の縁に立って、足を前に出して、身体が傾いて——。
落ちていく中で——手が、腕を掴んだ。強い力。乱暴ではないが、決して離さないという意志を持った手。
あの手がなかったら。
今ここにいない。
この景色を見ていない。この風を感じていない。この人の隣に立っていない。この美しい世界を、美しいと思う心を持っていない。
リーリエは隣を見た。
カインがいる。
深紅だった瞳は、今は落ち着いた暗褐色に変わっている。超常的な輝きは消え、普通の人間の目になっている。けれどその目の奥にある光は——あの日と変わらない。決して離さないという意志。守るという誓い。そして今は——それ以上の、穏やかな光。
カインもリーリエを見ていた。
あの日と同じ崖の上で。あの日と同じ風の中で。けれどあの日の虚ろな瞳はもうない。代わりにあるのは——光を映す、薄い青紫の瞳。生きている目。
風が凪いだ。
世界が静かになった。
二人だけが、崖の上に立っている。同じ風の中で。同じ空の下で。
リーリエは口を開きかけた。
言葉が——まだ、まとまらなかった。胸の中にあるものが大きすぎて、言葉にならなかった。三百五十話分のすべてが胸の中にあって、どこから言葉にすればいいかわからなかった。
「……明日、また来てもいい?」
代わりに出たのは、そんな言葉だった。
カインが少し驚いた顔をして——それから、小さく頷いた。
「ああ。何度でも」
風がまた吹いた。
二人は崖の上に立ったまま、遠くの景色を眺めていた。
言葉は——明日でいい。
今はただ、ここにいることが——幸せだった。




