世界の祈り
空が、青い。
リーリエは顔を上げた。灰の聖堂の前庭に立ち、ただ空を見ていた。雲が白く流れている。風が頬を撫でる。穏やかな風。災厄の気配はない。結界が薄い場所も、魔物が溢れる裂け目も——どこにもない。聖女だった頃は結界の綻びを感覚で察知できた。薄い場所は肌がざわつき、裂け目は身体の芯が引き裂かれるように痛んだ。今は——何も感じない。何も感じないことが、こんなにも安らかだ。
結界は——安定していた。
かつて自分の命で支えていたもの。左胸の紋章が脈打つたびに灼けるような痛みを送り込んできた、あの結界。聖女として覚醒してからの二年間、一瞬たりとも途切れなかった灼熱。朝も夜も、寝ても覚めても、骨の髄まで焼かれ続けた日々。
今はもう紋章もない。痛みもない。
リーリエは自分の手を見た。
何もない。紋様も、発光も、聖女の証も。十本の指と、薄い掌と、少しだけ荒れた爪先。傷だらけだが、それは旅の中でついた、生きた証の傷。ただの——人間の手だ。
何もないことが、こんなにも嬉しい。
手を握って、開いて、また握った。自由に動く。聖女の力に縛られていない。この手で何でもできる。何をしてもいい。何もしなくてもいい。
「各地の報告が届いています」
レオンハルトの副官が書類を持ってきた。教会の伝令網は機能し始めている。崩壊した組織の中から、情報の流れだけは早く復旧した。混乱は続いているが、それでも世界は動いている。
リーリエは書類を受け取った。読む義務はない。もう聖女ではないのだから。けれど——知りたかった。世界がどうなっているのか。自分たちが戦って勝ち取った「新しい世界」が、どう息づいているのか。
北方の街では、朝の祈りが習慣になりつつある。特別な儀式ではない。朝起きたときに、空を見上げて、「今日も世界がありますように」と願う。それだけだ。大仰な儀式も、聖なる道具も必要ない。たったそれだけの祈りが、結界を支える灯火の一つになる。
東部の村では、子供たちが祈りの歌を作った。遊び歌のような軽い調子で、「せかいをまもろう」と歌いながら手を叩く。意味を深く理解しているわけではない。子供たちにとって祈りは——遊びの延長だ。けれどその無邪気な祈りが、確かに結界を支えている。むしろ——無邪気であるがゆえに、純粋な灯火になっている。
南方の港町では、漁師たちが出航前に海に向かって祈る。魚が獲れますように、ではなく、「この海がありますように」と。嵐が来ても、凪が続いても、この海が在り続けますようにと。帰ってきたら、また祈る。「帰ってこられてよかった」と。それは祈りであり、同時に——感謝だ。
西部の農村では、種まきのときに祈る。「この土地が実りますように」。畑に水を撒きながら、鍬を振るいながら、小さな声で。収穫のときにも祈る。「ありがとう」と。大地に向かって、空に向かって。
万の灯火。
一つ一つは小さな、取るに足らない祈り。風に吹けば消えてしまいそうな、か細い灯。けれどそれが万に、億に、数え切れないほどに重なったとき——世界を覆う結界を支える力になる。一人の少女の命よりも、遥かに大きな力に。
もう、一人の少女が命を削る必要はない。
リーリエは書類を胸に抱いた。涙は出なかった。ただ、胸の奥がじんわりと温かかった。あの日、崖の上で望んだ解放は——こういう形で訪れた。死ではなく。消滅ではなく。世界が変わることで。
まだ混乱はある。祈りを拒む者もいる。「聖女制度に戻すべきだ」と訴える声もある。一人の犠牲で世界を守る方が効率的だと、そう考える人間がいることをリーリエは知っている。その論理は——大司教グレゴリウスの論理だ。冷徹で、合理的で、だからこそ五百年間維持された。
けれど——希望の方が、勝っていた。
祈る人の方が、祈らない人よりも多い。世界を守りたいと願う心の方が、誰かを犠牲にしてもいいという考えよりも、多い。それが——人間の強さだ。
「散歩するか」
カインが横に立っていた。いつの間にか来ていた。気配もなく現れるのは——もう超常的な力ではなく、五百年の習い性だ。
「……いつからいたの」
「さっきから」
「ずっと黙って立ってたの?」
「お前が空を見ていたから。邪魔するのも悪いと思った」
不器用な気遣い。声をかけるタイミングを計り、結果として黙って隣に立つという選択をした男。リーリエは小さく笑った。
「ええ、散歩しましょう」
二人で聖堂の周辺を歩いた。瓦礫の撤去が進み、道が整備され始めている。かつて壮麗だった石畳は罅だらけだが、その隙間から草が生えている。生命力だ。壊れた場所から、新しい命が芽吹いている。踏まれても、砕かれても、隙間があれば芽を出す。草の逞しさが——少し、人間に似ていると思った。
並んで歩く。
かつては——飛んでいた。カインがリーリエを抱えて空を飛んでいた。あの夜、崖の上から魔王城まで。あのとき、リーリエの足は地面に着いていなかった。カインの腕の中で、空を飛んだ。高く、速く、人間離れした魔力で。
今は違う。同じ地面を、同じ速度で、二人で歩いている。一歩一歩、石畳を踏みしめて。
「世界は変わったな」
カインが言った。短い言葉。けれどその短さの中に、五百年分の感慨がある。
「ええ」
「……お前も変わった」
「あなたも」
短い言葉の応酬。けれどその短さの中に、二人にしかわからない重みがある。三百数十話分の日々が、この数語に凝縮されている。
カインが足を止めた。道端に小さな花が咲いていた。瓦礫の隙間から顔を出した、名もない野花。白い花弁が風に揺れている。こんな場所に——花が咲いている。
カインがしゃがんで、花を見つめた。大きな背中が、小さな花の前で丸くなっている。
「……歩くのは久しぶりだな」
「飛ぶ方が楽だった?」
「楽だった。だが——」
カインが立ち上がった。リーリエを見た。深紅の瞳。けれど——かつてのような超常的な輝きは薄れている。普通の人間に近い、落ち着いた赤。
「歩く方がいい」
「どうして?」
「お前と同じ速度で行ける」
リーリエの鼓動が跳ねた。この男は不意打ちのように、こういうことを言う。本人に自覚がないから余計にたちが悪い。不器用で、素直じゃなくて、でも——こういう瞬間に、胸を打つ言葉を放り込んでくる。
「……それ、わざと言ってる?」
「何がだ」
「何でもない」
リーリエは歩き出した。少しだけ早足で。顔が熱い。カインが後ろから追いかけてくる。
「おい、急ぐな。転ぶぞ」
「転ばない」
「お前は昔から足元が危うい」
「崖から落ちたのは一回だけよ」
「一回で十分だ」
軽口を叩きながら、二人は瓦礫の道を歩いていく。
世界は変わった。結界は万人の祈りで支えられている。聖女はもういない。魔王もいない。
けれど——二人はいる。
同じ地面を踏みしめて、同じ速度で、並んで歩いている。
それだけのことが——何よりも確かな、新しい日常の始まりだった。




