新しい教会
灰の聖堂は、まだ焦げた匂いがした。
儀式の痕跡が残る石畳を踏みしめながら、リーリエは広間を見渡した。壁面の聖画は罅が入り、天蓋のステンドグラスは半ば砕けて、色とりどりの欠片が床に散らばっている。かつてこの場所は教会の最高権威の象徴だった。聖女を祀り、信仰を集め、世界の秩序を司る場所。今はただの——壊れた建物だ。
けれど、人がいる。
聖騎士たちが瓦礫を片づけている。修道女たちが負傷者の手当てをしている。市民たちが水や食料を運び入れている。子供が母親の手を引いて、割れたステンドグラスの欠片を拾い集めている。「きれいだね」と無邪気に言う声が、崩れた広間に響いた。
崩壊の中に——芽吹きがあった。
「本日より、教会は生まれ変わります」
レオンハルトの声が広間に響いた。
白銀の甲冑から教会の紋章を外した、無地の鎧姿。紋章のあった場所に、まだ色が変わった痕跡が残っている。長年の忠誠の証を剥がした、その空白。それでも——いや、それだからこそ、彼の立ち姿には凛とした輝きがあった。組織の権威ではなく、個人の信念が纏う光だ。
「聖騎士は人を守る。それが私たちの新しい——いや、本来の誓いです」
集まった人々が息を呑んだ。聖騎士たちが背筋を伸ばす。レオンハルトの部下たちだ。彼に従い、教会を離反し、共に戦った者たち。その顔に迷いはなかった。この男について来たことを——後悔していない顔だった。
「聖女制度の全記録を公開します。歴代の聖女が何を強いられ、どのように犠牲になったのか。教会が何を知り、何を隠してきたのか。すべてを明らかにし、過ちと向き合います」
広間に沈黙が降りた。重い沈黙だった。五百年分の罪を受け止めようとする沈黙。知らなかったことへの衝撃と、知ろうとしなかったことへの悔恨が、石畳の上に静かに積もっていくような沈黙。けれど誰一人、目を逸らさなかった。
リーリエは広間の隅に立っていた。カインが隣にいる。二人とも、見届ける側だ。もう聖女でもなく、魔王でもない。ただの——二人の人間として。
カインの腕が微かにリーリエの肩に触れていた。意図しているのか無意識なのか、わからない。けれどその温もりが、リーリエを穏やかに支えていた。
レオンハルトの宣言が終わると、別の扉が開いた。
グレゴリウスが連行されてきた。
かつての大司教は、手枷をかけられていた。法衣は汚れ、頬はこけ、白髪がくすんでいる。けれどその目だけは変わらない。冷たく、鋭く、すべてを見透かすような目。世界を守るために聖女を犠牲にし続けた男の、揺るがない目。
リーリエはその目を真っ直ぐに見つめた。
かつて、この男の前では声が出なかった。教会にいた頃、大司教の視線は「資源」を値踏みする目だった。リーリエの人格ではなく、結界の燃料としての残量を測る目。その視線に晒されるたびに、リーリエは自分が「物」になっていく気がした。
今は——その目を、真っ直ぐに見返せる。
「裁きの場を設けます」
レオンハルトが告げた。
「大司教グレゴリウス。聖女制度の隠蔽と維持に関する罪状について、公正な審理を行う」
グレゴリウスの唇が微かに動いた。嗤っているのか、嘆いているのか、判別がつかなかった。
「処刑を」
群衆の中から声が上がった。それに呼応するように、怒号が広がる。
「人殺しだ」
「聖女を殺した男だ」
「二十三人の命を奪った」
怒りは当然だった。聖女制度の真実が公になったとき、人々が抱いた感情は——怒りと、悲しみと、そして己が無知であったことへの罪悪感だった。その行き場のない感情が、今、大司教一人に向かっている。
リーリエは一歩、前に出た。
広間が静まった。かつての聖女が口を開く。その姿を、人々は見つめた。銀灰色の髪が陽光に照らされている。かつての聖衣ではなく、質素な旅装。けれどその姿に——聖女の頃にはなかった力があった。
「裁きは必要です」
リーリエの声は穏やかだった。大きくはないが、不思議と広間の隅まで届いた。聖女の力ではない。言葉そのものが持つ力。
「けれど、命を奪うことは望みません」
群衆がざわめいた。「なぜだ」「この男のせいで」という声が聞こえる。
「大司教は間違いを犯しました。けれど——世界を守りたかったことは、嘘ではなかった。方法が、間違っていたのです」
グレゴリウスがリーリエを見た。老いた瞳に、ほんの一瞬、何かが揺れた。驚きか。動揺か。あるいは——。
「……聖女は甘いな」
「もう聖女じゃありませんから」
リーリエは微笑んだ。目尻が下がる、穏やかな笑み。
「ただの、甘い人間です」
グレゴリウスは何も言わなかった。長い沈黙の後、視線を落とし、連行されていった。その背中が——初めて小さく見えた。五百年の教会を率いてきた背中が。
広間がざわめいた。賛同と困惑が入り混じる声。しかしレオンハルトが頷いた。「審理は公正に行う。それが新しい教会だ」。彼の声には迷いがなかった。
人々が散り始める中、レオンハルトがカインの前に歩み寄った。
無地の甲冑の騎士が、黒い外套の男の前に立つ。新しい聖騎士団長と、初代聖騎士。五百年の時を隔てた、二人の騎士。
レオンハルトが、拳を胸に当てた。聖騎士の最上位の敬礼。
「初代聖騎士の精神を——私たちが継ぎます」
カインは黙ってレオンハルトを見つめた。深紅の瞳に、複雑な光が揺れている。五百年前、自分がいた場所に、今この若い騎士が立っている。あの頃の自分と同じ真っ直ぐな目をした、不器用なまでに正直な男。
「……好きにしろ」
素っ気ない返事。けれどその声は——どこか、柔らかかった。
リーリエが横から口を挟んだ。
「素直に喜べないの?」
「……うるさい」
カインが顔を背けた。耳が赤い。リーリエにはもう見慣れた——この男の、不器用な照れ隠し。五百年分の感情を「うるさい」の三文字に詰め込む男。
レオンハルトが微かに笑った。初めて見る、肩の力が抜けた笑み。戦いの間は見せなかった顔だ。
「では、失礼します。やることが山ほどありますので」
「レオンハルト」
リーリエが呼び止めた。
「ありがとう。教会を——変えてくれて」
レオンハルトが振り返った。真っ直ぐな琥珀色の目。嘘がつけない目。右頬の刀傷が、陽光に照らされている。
「変えたのは——あなたたちです。私は、正しいと思うことをしただけだ」
踵を返し、瓦礫の中を歩いていく。部下たちが駆け寄り、次の指示を仰いでいる。その背中に、新しい教会の夜明けが重なって見えた。
リーリエはカインの隣に戻った。
広間の高い窓から、光が差し込んでいる。砕けたステンドグラスの隙間から射す、飾り気のない白い光。聖画に彩られた光ではなく、ありのままの陽光。かつての教会は美しいステンドグラスで光を飾り立てていた。今は——裸のままの光が、瓦礫の広間を照らしている。
そちらの方が、ずっと綺麗だとリーリエは思った。
「……甘いのは昔からだ」
カインが呟いた。
「え?」
「さっきの。甘い人間だと言っただろう。昔からだ。——崖の上でも、そうだった」
リーリエは目を瞬いた。
「あのときの私、甘かった? 死のうとしてたのに」
「死のうとしてたくせに、『ありがとうございます』と言った。死にたい人間は礼なんか言わん。——あれは甘い人間の言葉だ」
不器用な褒め言葉。五百年生きた男が、たどたどしく紡ぐ肯定の言葉。カインなりの——「あの日のお前は、もう生きたかったんじゃないか」という問いかけ。
リーリエは小さく笑った。目が笑っている。本当の笑み。
「……ありがとう」
「礼を言うな。事実を言っただけだ」
崩れた聖堂の中で、二人が並んで立っている。瓦礫の中に光が差し込んでいる。人々が動き回っている。新しい教会を、その手で作ろうとしている。
新しい教会が——始まろうとしていた。




