夜明け
朝日が、差し込んできた。
灰の聖堂の高い窓。色硝子を通して、金色の光が聖堂の床に落ちる。赤と青と緑の光が石の床に模様を描き、穏やかな空気の中を塵が金色に輝きながら舞っている。
夜が明けたのだ。
リーリエの瞼に、温かな光が触れた。
ゆっくりと——目が開く。
視界がぼやけていた。天井の高い石造りの空間。色硝子の窓から差し込む朝日。穏やかに灯り続ける炉の光。聖堂の壁に刻まれた古い装飾が、朝の光に照らされて柔らかく浮かび上がっている。
身体が重い。全身が鉛のようだ。しかし——痛みはない。紋章の痛みがない。あの鈍痛がない。
生きている。
そして——。
目の前に、カインの顔があった。
暗い褐色の瞳。黒い髪が額にかかっている。疲れた顔をしていた。目の下に濃い隈があり、頬が少しこけている。唇が乾いて、肌に血色がない。一晩中起きていたのだろう。リーリエが眠っている間、ずっと傍を離れず、目を開けるのを待っていたのだろう。
けれど——リーリエと目が合った瞬間、その顔が緩んだ。
疲労の影が消えたわけではない。隈も消えていないし、頬もこけたままだ。けれど目の奥に——温もりが灯った。褐色の瞳に、穏やかな光が宿った。
「おはよう」
リーリエは言った。
何でもない言葉。毎朝交わされる、ありふれた挨拶。魔王城で何百回も繰り返した言葉。
けれどこの「おはよう」は——聖女ではなくなった、ただのリーリエとしての最初の「おはよう」だった。紋章の痛みで目覚めるのではなく、朝日の光で目覚めた朝の「おはよう」。
「おはよう」
カインが返した。
同じように何でもない声。ぶっきらぼうで、短くて、飾り気のない声。しかしその声には——五百年分の安堵が滲んでいた。五百年間待ち続けた朝が、ようやく来た。そんな声だった。
リーリエはゆっくりと身体を起こそうとした。カインの腕の中から抜け出そうとして——身体が動かない。全身が鉛のように重い。腕に力が入らない。
「無理するな。ゆっくりでいい」
「……はい」
カインの手を借りて、ようやく上体を起こした。カインの手が背中を支えてくれる。力のない、普通の人間の手。けれど温かい手。毛布がずり落ちる。リュカがかけてくれた毛布だ。
聖堂の中を見回した。
炉の火が穏やかに灯り続けている。一晩経っても消えていない。万の灯火は途絶えることなく、世界中から炉に注がれ続けている。白い光の柱が静かに聖堂の天井を照らし、空気中の塵が光の中で金色に踊っている。
人々が祈り続けてくれている。眠っている間も、夜の間も。誰かが祈り、その祈りが灯火になり、炉に届き、結界を維持している。もう聖女の命は必要ない。
窓の外に目を向けた。
朝の空が広がっていた。
青い空。白い雲。朝日が地平線から昇り、世界を金色に染めていく。何の変哲もない——ありふれた朝の風景。鳥が遠くで鳴いている。風が木の葉を揺らしている。
けれどリーリエの目には、それが新しく見えた。
結界は安定していた。災厄の気配はない。空は澄み、風は穏やかで、世界は——静かに息をしている。
聖女の犠牲によってではなく、万人の祈りによって守られている世界。
「……きれいな朝」
リーリエは呟いた。
「ああ」
カインが隣で頷いた。
二人は並んで窓の外を見つめた。聖堂の床に座ったまま、肩が触れ合う距離で、朝日に照らされている。
カインの横顔を、リーリエはそっと見つめた。
超常的な輝きを失った褐色の瞳。疲れた顔。少しやつれた頬。五百年分の力を失い、普通の人間になったカイン。
その横顔が——リーリエには、今まで見たどのカインよりも穏やかに見えた。
五百年分の重荷を下ろした顔。贖罪の鎖から解き放たれた顔。もう何も背負っていない、ただの人間の顔。初代聖騎士でもなく、魔王でもなく、五百年の放浪者でもない。ただの——カイン。
「カイン」
「何だ」
「お腹、空きました」
カインが一瞬、目を瞬いた。
それから——笑った。
小さな笑いだった。声を出して笑うことの少ないカインが、微かに肩を震わせて笑った。目尻に皺が寄り、口元が柔らかくなる。五百年ぶりの——本当の笑み。
「……朝飯、何がいい」
「何でもいいです」
「何でもいい、が一番困るんだが」
「じゃあ——温かいスープがいいです。パンと、スープ。それだけでいい」
「分かった」
カインが立ち上がろうとして——また足がもつれた。
「あっ——」
リーリエが手を伸ばし、カインの腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「……ああ。まだ足が慣れない」
「慣れるまで、一緒に歩きますね」
「……ああ」
二人でゆっくりと立ち上がった。互いの腕を取り、支え合いながら。どちらが支えているのか分からない。どちらも支えていて、どちらも支えられている。
窓の外から朝日が差し込んでいた。二人の影が聖堂の床に長く伸びている。
聖堂の奥で、リュカが目を擦りながら起き上がった。壁際で仮眠を取っていたらしい。外套を毛布代わりにして丸まっていた従者長が、二人の姿を見つけて、目を見開いた。
「お嬢様! カイン様! おはようございます!」
「おはよう、リュカ」
「おはよう」
リュカの目に涙が浮かんだ。しかしすぐに袖で拭い、いつもの軽い調子で笑った。笑顔がぎこちないのは、泣きそうなのを我慢しているからだ。
「朝食ですね? 任せてください。とびきりのスープを用意しますよ」
「頼む」
「お嬢様のリクエストですからね。腕によりをかけます」
リュカが駆けていく。途中で一度振り返り、二人が支え合って立っている姿を見て——今度こそ涙を拭いた。
その背中を見送りながら、リーリエは微笑んだ。
日常が戻ってきた。
ありふれた朝。温かいスープとパン。仲間たちの声。カインの不器用な優しさ。リュカの軽口。レオンハルトの寡黙な見守り。
何も特別なことはない。けれど——この「何も特別でないこと」こそが、リーリエがずっと手に入れたかったものだった。
聖女でも人柱でもない、ただの自分として迎える朝。痛みのない身体で目覚め、温かいスープを飲み、好きな人の隣で笑う。
ただ——それだけの朝。
窓の外には、新しい世界が広がっている。万の灯火に守られた、誰も犠牲にならない世界。空が高い。雲が白い。風が穏やかに木の葉を揺らしている。何も変わっていないように見える。けれどリーリエには——全てが違って見えた。
リーリエはカインの腕に支えられながら、窓の方へ歩いた。朝日が二人を照らしている。長い影が聖堂の床に伸び、炉の穏やかな光と混ざり合っている。
新しい世界の、最初の朝だった。
生きていて、よかった。




