静かな火
炉の火が、穏やかに灯っていた。
リーリエの視界に映るその光は、かつてと全く違うものだった。
一人の命が灼ける激しい炎ではない。万の灯火が集まった、静かな光。蝋燭の炎が無数に集まったような——温かく、優しく、揺らめく光。炉の中を満たす白金色の光柱が、聖堂の天井まで届き、色硝子の窓に反射して虹色の模様を壁に映している。
「……きれい」
呟いた。
灰の聖堂の天井まで届く光の柱。その中を、無数の小さな灯火が渦を巻いて昇っていく。世界中の人々の祈りが、この場所に集まり、炉を灯し、結界を維持している。名も知らない漁師の祈り。幼い子供の「がんばれ」。懺悔する聖職者の涙。辺境の老婆の皺だらけの手。それら全てが光になって、ここに集まっている。
誰も犠牲になっていない光。
それが——こんなにもきれいだとは。
「きれいだな」
カインの声が、すぐ傍で聞こえた。
リーリエはカインの腕の中にいた。聖堂の床に座り込んだカインが、リーリエを膝の上に横たえるようにして抱きかかえている。リーリエが目覚めてからも、その姿勢は変わらなかった。変えようとしなかった、というべきか。
「カイン。もう大丈夫だから、下ろしてもいいですよ」
「いや」
「いや、じゃなくて」
「もう少し」
「……もう少しって、どのくらいですか」
「もう少しだ」
カインの顔は見えなかった。リーリエの頭がカインの胸に押し当てられているから。しかしカインの声が震えていないことは分かった。穏やかな声だった。不器用で、ぶっきらぼうで、でも温かい。五百年の間変わらなかった——いや、変わったのかもしれない。柔らかくなった。
仕方ない。もう少しだけ、このままでいよう。
身体が重かった。指一本動かすのも億劫なほどに疲弊している。儀式の負荷が全身に残っていて、まるで何日も眠らずに走り続けたあとのような倦怠感。筋肉が言うことを聞かず、頭がぼんやりしている。
でも——痛みはない。
あの紋章の痛みがない。覚醒してからずっと身体に巣食っていた鈍痛が、完全に消えている。痛みのない身体がこんなにも軽いことを、リーリエは忘れていた。二年間、痛みと共に生きてきたから。痛みが当たり前になっていたから。
痛くない朝を迎えられる。
それだけで——泣きそうになった。
「眠い」
「寝ろ」
「でも——」
「いいから寝ろ。俺がいる」
カインの声は、昔と変わらなかった。ぶっきらぼうで、命令口調で、けれど中身は全部リーリエへの世話。「食え」「寝ろ」「死ぬな」。命令の形をした優しさ。五百年変わらない、カインの不器用な愛し方。
超常的な力がなくなっても。魔王でなくなっても。この人は何も変わらない。
リーリエの口元が緩んだ。
「カイン」
「何だ」
「おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」
その言葉の重さを、カインは分かっているだろうか。
おやすみなさい。目覚めることを前提とした言葉。明日があることを疑わない言葉。死にたがりだった少女が、安心して目を閉じ、安心して眠りにつける。
かつてリーリエにとって、眠りは小さな死だった。「このまま目が覚めなければいいのに」と思いながら目を閉じていた。朝が来るたびに「まだ生きている」と落胆していた。
今は違う。
目覚めたとき、カインがいてくれると信じて眠る。朝が来ることを楽しみにして眠る。
リーリエは目を閉じた。
意識が遠のいていく。しかし怖くなかった。これは死ではない。休息だ。身体を休めるための、安らかな眠り。
カインの心臓の音が聞こえる。規則的で、穏やかな鼓動。超常的な力が消えた普通の人間の心臓。それが——こんなにも安心する音だとは。カインの体温が伝わってくる。普通の人間の体温。温かくて、安定していて、生きている証。
意識が暗くなっていく。
最後に聞こえたのは——毛布を持ってきたリュカの足音と、静かな声だった。
「お二人とも、お疲れ様でした」
いつものおどけた調子はなく、ただ真摯な労いの声。毛布がそっとかけられる。温かい。リュカの手が震えていた。泣いていたのだろう。
レオンハルトが聖堂の入口に立ち、外の様子を見守っている。結界は安定している。災厄の気配はない。世界は——守られている。
誰も犠牲にならずに。
リーリエは微かに微笑んだまま、眠りに落ちた。
カインはリーリエの寝顔を見下ろした。
安らかな顔だった。苦痛の影も、諦念の翳りもない。ただ穏やかに——疲れた身体を休めている少女の顔。初めて見る寝顔かもしれない、とカインは思った。苦痛に顔を歪めず、悪夢にうなされず、ただ静かに眠っている。
カインは傍を離れなかった。
もう超常的な力はない。眠るリーリエを魔法で守ることもできない。
しかし——隣にいることはできる。
それで十分だった。
炉の穏やかな光の中で、二人は静かに休んでいた。




