カインの腕の中で
リーリエが、倒れた。
炉の出口まであと数歩というところだった。肩を貸していたリーリエの足から突然力が抜け、身体が傾いだ。糸の切れた人形のように、ゆっくりと。
「リーリエ!」
カインは咄嗟に手を伸ばした。
超常的な力はもうない。反射速度も、腕力も、普通の人間のそれだ。五百年前なら瞬きの間にリーリエを抱き止められた。今は——ぎりぎりだった。
リーリエの身体を抱きとめる。華奢な体が腕の中に収まった。軽い。こんなに軽かったのか。超常的な力で持ち上げていたときは気づかなかった重さ——いや、軽さ。この小さな身体が、世界の重さを背負っていた。
「しっかりしろ。リーリエ」
呼びかけたが、返事がない。リーリエの目は閉じていた。銀灰色の髪が顔にかかり、白い頬に影を落としている。呼吸はある——浅いが、規則的だ。脈もある——弱いが、確実に打っている。しかし意識がない。
儀式の負荷が限界を超えていたのだ。橋渡しを最後まで完遂し、紋章が消えるまで炉と繋がり続け、歴代聖女を見送り、炉の外まで歩こうとした。その全てが、聖女の力を失った身体には重すぎた。
カインはリーリエを抱きかかえた。
重い。
いや——普通の人間の腕で、一人の少女を抱き上げるのだから、重いのは当然だ。五百年前なら片腕で軽々と持ち上げられたものが、今は両腕を使ってやっと。腕の筋肉が震え、肩が軋む。
構わない。
両腕がある。それで十分だ。
カインは一歩を踏み出した。炉の出口に向かって。
足が震える。膝が笑う。身体中の筋肉が悲鳴を上げている。一歩進むたびに足がもつれそうになる。リーリエの重さが腕にかかり、背筋に負荷がかかり、息が上がる。
しかし一歩。また一歩。リーリエを抱えたまま、確実に進む。
五百年前——エルシェが炉に消えたとき、カインは何もできなかった。炉の外に弾かれたまま、愛する人が光に溶けていくのを見ていた。手を伸ばしたが届かなかった。
今は違う。
リーリエは腕の中にいる。抱きしめられている。温もりがある。呼吸がある。心臓が動いている。
この腕から離さない。
炉の光が薄くなっていく。出口が近い。白い光から、聖堂の穏やかな明かりへ。
最後の一歩を踏み出したとき——炉の外壁を越えた。
外の空気が、肌に触れた。
炉の中の灼熱とは違う、冷たく澄んだ空気。灰の聖堂の広い空間に、穏やかな光が満ちている。炉から漏れる白い光が、聖堂の石壁を柔らかく照らしている。
「カイン様!」
「お嬢様……!」
仲間たちが駆け寄ってきた。
リュカが真っ先に近づき、リーリエの顔を覗き込んだ。従者長の目は真っ赤だった。泣いていたのだろう。いつもの軽口は影を潜め、ただ必死な顔でリーリエの頬に触れた。
「お嬢様、お嬢様! 聞こえますか!」
レオンハルトが外套を脱ぎ、リーリエの身体にかけた。銀色の鎧の下から取り出した、聖騎士団の紋章が入った外套。
「横にしたほうがいい。回復を——」
「いや」
カインは首を横に振った。
「もう少し。このまま」
リーリエを腕に抱いたまま、カインは聖堂の床に膝をついた。立っている力が、もう残っていなかった。
膝をついた姿勢で、リーリエを抱きしめる。
冷たい。まだ身体が冷たい。手足が冷えている。しかし脈は確かで、呼吸も安定している。眠っているだけだ。死んではいない。
「リーリエ」
名前を呼んだ。
返事はない。
「リーリエ」
もう一度。カインの声が、聖堂の高い天井に反響する。
リーリエの瞼が——微かに動いた。
睫毛が震え、ゆっくりと——薄い青紫の瞳が覗いた。
焦点が合うまでに数秒かかった。ぼんやりとした視線が天井を漂い、やがて——目の前のカインの顔を捉える。暗い褐色の瞳。疲れた顔。涙の跡。
「……カイン」
掠れた声。
カインの胸の奥で、何かが弾けた。
「ああ。ここにいる」
リーリエの唇が、微かに動いた。笑おうとしている。かすかに、しかし確かに。
「……あとで、って言ったでしょ」
カインの目から、涙がこぼれた。
止められなかった。堰を切ったように溢れてきた。泣き笑いだった。数百年ぶりの——心からの笑みと、止まらない涙が、ごちゃまぜになって。口元は笑っているのに目から涙が流れる、どうしようもない顔。
「ああ。あとでだ」
リーリエが微笑んだ。
目が笑っていた。瞳の奥に光があった。あの虚ろな目の少女はもういない。「助けなくてよかったのに」と言った少女はもういない。
周囲の仲間たちが、安堵の息を漏らした。リュカが「お嬢様……!」と泣き崩れ、レオンハルトが「無事か」と呟いて目頭を押さえた。
カインはリーリエを抱きしめたまま、動かなかった。
超常的な力はもうない。この腕でリーリエを守る力も、世界を救う力もない。
ただの腕だ。
ただの人間の、ただの腕。
しかしこの腕の中にリーリエがいて——リーリエが笑っている。
それだけで。
それだけで十分だった。




