↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

337/350

カインの腕の中で

 リーリエが、倒れた。


 炉の出口まであと数歩というところだった。肩を貸していたリーリエの足から突然力が抜け、身体が傾いだ。糸の切れた人形のように、ゆっくりと。


「リーリエ!」


 カインは咄嗟に手を伸ばした。


 超常的な力はもうない。反射速度も、腕力も、普通の人間のそれだ。五百年前なら瞬きの間にリーリエを抱き止められた。今は——ぎりぎりだった。


 リーリエの身体を抱きとめる。華奢な体が腕の中に収まった。軽い。こんなに軽かったのか。超常的な力で持ち上げていたときは気づかなかった重さ——いや、軽さ。この小さな身体が、世界の重さを背負っていた。


「しっかりしろ。リーリエ」


 呼びかけたが、返事がない。リーリエの目は閉じていた。銀灰色の髪が顔にかかり、白い頬に影を落としている。呼吸はある——浅いが、規則的だ。脈もある——弱いが、確実に打っている。しかし意識がない。


 儀式の負荷が限界を超えていたのだ。橋渡しを最後まで完遂し、紋章が消えるまで炉と繋がり続け、歴代聖女を見送り、炉の外まで歩こうとした。その全てが、聖女の力を失った身体には重すぎた。


 カインはリーリエを抱きかかえた。


 重い。


 いや——普通の人間の腕で、一人の少女を抱き上げるのだから、重いのは当然だ。五百年前なら片腕で軽々と持ち上げられたものが、今は両腕を使ってやっと。腕の筋肉が震え、肩が軋む。


 構わない。


 両腕がある。それで十分だ。


 カインは一歩を踏み出した。炉の出口に向かって。


 足が震える。膝が笑う。身体中の筋肉が悲鳴を上げている。一歩進むたびに足がもつれそうになる。リーリエの重さが腕にかかり、背筋に負荷がかかり、息が上がる。


 しかし一歩。また一歩。リーリエを抱えたまま、確実に進む。


 五百年前——エルシェが炉に消えたとき、カインは何もできなかった。炉の外に弾かれたまま、愛する人が光に溶けていくのを見ていた。手を伸ばしたが届かなかった。


 今は違う。


 リーリエは腕の中にいる。抱きしめられている。温もりがある。呼吸がある。心臓が動いている。


 この腕から離さない。


 炉の光が薄くなっていく。出口が近い。白い光から、聖堂の穏やかな明かりへ。


 最後の一歩を踏み出したとき——炉の外壁を越えた。


 外の空気が、肌に触れた。


 炉の中の灼熱とは違う、冷たく澄んだ空気。灰の聖堂の広い空間に、穏やかな光が満ちている。炉から漏れる白い光が、聖堂の石壁を柔らかく照らしている。


「カイン様!」


「お嬢様……!」


 仲間たちが駆け寄ってきた。


 リュカが真っ先に近づき、リーリエの顔を覗き込んだ。従者長の目は真っ赤だった。泣いていたのだろう。いつもの軽口は影を潜め、ただ必死な顔でリーリエの頬に触れた。


「お嬢様、お嬢様! 聞こえますか!」


 レオンハルトが外套を脱ぎ、リーリエの身体にかけた。銀色の鎧の下から取り出した、聖騎士団の紋章が入った外套。


「横にしたほうがいい。回復を——」


「いや」


 カインは首を横に振った。


「もう少し。このまま」


 リーリエを腕に抱いたまま、カインは聖堂の床に膝をついた。立っている力が、もう残っていなかった。


 膝をついた姿勢で、リーリエを抱きしめる。


 冷たい。まだ身体が冷たい。手足が冷えている。しかし脈は確かで、呼吸も安定している。眠っているだけだ。死んではいない。


「リーリエ」


 名前を呼んだ。


 返事はない。


「リーリエ」


 もう一度。カインの声が、聖堂の高い天井に反響する。


 リーリエの瞼が——微かに動いた。


 睫毛が震え、ゆっくりと——薄い青紫の瞳が覗いた。


 焦点が合うまでに数秒かかった。ぼんやりとした視線が天井を漂い、やがて——目の前のカインの顔を捉える。暗い褐色の瞳。疲れた顔。涙の跡。


「……カイン」


 掠れた声。


 カインの胸の奥で、何かが弾けた。


「ああ。ここにいる」


 リーリエの唇が、微かに動いた。笑おうとしている。かすかに、しかし確かに。


「……あとで、って言ったでしょ」


 カインの目から、涙がこぼれた。


 止められなかった。堰を切ったように溢れてきた。泣き笑いだった。数百年ぶりの——心からの笑みと、止まらない涙が、ごちゃまぜになって。口元は笑っているのに目から涙が流れる、どうしようもない顔。


「ああ。あとでだ」


 リーリエが微笑んだ。


 目が笑っていた。瞳の奥に光があった。あの虚ろな目の少女はもういない。「助けなくてよかったのに」と言った少女はもういない。


 周囲の仲間たちが、安堵の息を漏らした。リュカが「お嬢様……!」と泣き崩れ、レオンハルトが「無事か」と呟いて目頭を押さえた。


 カインはリーリエを抱きしめたまま、動かなかった。


 超常的な力はもうない。この腕でリーリエを守る力も、世界を救う力もない。


 ただの腕だ。


 ただの人間の、ただの腕。


 しかしこの腕の中にリーリエがいて——リーリエが笑っている。


 それだけで。


 それだけで十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。