消える紋章
紋章が——消えていく。
リーリエは自分の左胸を見下ろした。聖女の紋章。白銀の紋様。覚醒の日からずっとそこにあった刻印。結界と繋がる証であり、命を燃料にされ続ける呪いの証。十五歳の覚醒の瞬間から二年間、一日も消えたことのなかった紋様。
その光が、薄れていた。
ゆっくりと。砂時計の砂が落ちるように。紋章の輝きが一つ、また一つと消えていく。白銀の紋様が肌の上で溶けるように薄れ、輪郭がぼやけ、やがて見えなくなっていく。
痛みはなかった。
むしろ——軽くなっていく。
覚醒して以来ずっとリーリエの身体に巣食っていた鈍痛が、紋章と共に消えていく。あの日常的な苦痛。全身を灼く炎のような痛み。寝ても覚めても消えることのなかった、命を搾り取られる感覚。朝起きるたびに「今日もまだ生きている」と倦怠感と共に思い知らされてきた、あの痛み。
それが——なくなっていく。
「……あ」
声が漏れた。
身体が軽い。
こんなに身体が軽いのは——覚醒する前以来だ。十五歳の、あの日以来。聖女になる前の、ただの少女だった頃以来。教会で友人と笑い合っていた頃の、何の痛みもなかった身体。
息を吸った。深く。痛みなく。肺が十分に膨らむ感覚を、二年ぶりに味わった。
紋章の最後の一画が消えた。
リーリエの左胸に、もう何の紋様もない。白い肌があるだけ。ただの十七歳の少女の肌。
「……消えた」
リーリエは自分の手を見つめた。両手を開いて、閉じて、また開いた。
聖女の力が完全に消えたことを、身体で理解した。結界を感じる力もない。炉との繋がりもない。歴代聖女の記憶に触れる能力もない。世界の重さを、もう一片も感じない。
何もない。
何も——残っていない。
聖女ではなくなった。人柱でも、炉の燃料でも、橋渡しの媒介でもない。ただの一人の、十七歳の人間。
「私は——」
リーリエは自分の手を握りしめた。
何者でもなくなった。聖女という肩書も、結界を維持する役割も、世界を背負う使命も。全て消えた。
それは——。
恐怖ではなかった。
もし一年前の自分なら、恐怖だったかもしれない。いや、恐怖すら感じなかっただろう。何も感じない空白の中で、ただ淡々と「そうですか」と呟いていただろう。聖女でなくなったところで、どうでもいい。生きていること自体がどうでもいいのだから。
かつて、リーリエにとって「聖女」は自分を定義する唯一のものだった。両親に捨てられ——正確には記憶を改竄されて引き離され、教会で育てられ、聖女として覚醒した。教会の人々はリーリエの名前ではなく「聖女さま」と呼んだ。リーリエという人間に価値があるのではなく、聖女としての機能に価値がある。そう信じていた。
聖女でなくなれば、自分には何もない。そう思っていた。
違った。
カインが教えてくれた。リュカが教えてくれた。レオンハルトが教えてくれた。そして——世界中の人々が、祈りで教えてくれた。
「私は、リーリエだ」
静かな声で、自分の名前を言った。
聖女リーリエではない。最後の人柱でもない。ただの——リーリエ。名前だけが残る。
カインに拾われた少女。魔王城で温かいスープを飲んだ少女。リュカに「お嬢」と呼ばれた少女。レオンハルトに「あなたを取り戻す」と言われた少女。世界中の人々に「がんばれ」と祈ってもらった少女。
それだけでいい。
それだけで——十分だ。
「ああ」
隣でカインの声がした。
「お前はリーリエだ」
その声を聞いて、リーリエは微笑んだ。目が笑っている——本当の笑みだった。目尻が下がり、頬が柔らかくなり、瞳の奥に光が灯る笑み。
「リーリエ。それ以外の何者でもない。それでいい」
「はい」
二人は炉の中に立っていた。穏やかな白い光が回路を流れている。先ほどまでリーリエの命を灼いていた炉が、今は——温かいだけの場所になっている。
リーリエは炉の光を見上げた。
美しかった。
初めて、心からそう思えた。
かつて炉の光は恐怖の象徴だった。聖女の命を燃やす炎。リーリエの命を削り続ける呪いの光。見るだけで紋章が疼き、身体が竦んだ。
今は違う。
万の灯火が集まった穏やかな光。誰の命も燃やしていない。誰も犠牲になっていない。世界中の人々の祈りが、小さな灯火として炉に集まり、優しく燃えている。
「きれい」
リーリエは呟いた。
この光を「きれい」と思える自分がいる。かつては「恐ろしい」としか思えなかったものを、今は「きれい」と感じられる。
覚醒した日、初めて炉の光を見たときのことを覚えている。白金色の光が紋章に流れ込んできた瞬間、全身を灼かれるような痛みが走った。あの日から炉の光は苦痛の象徴だった。光を見るだけで身体が竦み、紋章が疼いた。
今、同じ炉の光を見ている。けれど痛みはない。紋章はない。ただ——温かい光がある。
それは——世界が変わったからだ。
いや。世界を、変えたからだ。
リーリエとカインと、初代聖女エルシェの遺した設計図と、万の灯火を捧げてくれた名も知らない人々が。
一人の力ではなかった。誰か一人の英雄の物語ではなかった。
たくさんの人の想いが集まって、世界が変わった。




