長すぎた旅の燃料
数百年分の生命力が、堰を切ったように溢れ出した。
カインは躊躇しなかった。
身体の中心から末端へ、末端からリーリエの身体へ、そして炉の回路へ——五百年分の蓄積が一気に流れ込んでいく。砂時計をひっくり返すのではなく、叩き割るように。これまでは少しずつ注いでいた生命力を、今度は全開放した。
全身から力が抜けていく。
視界がぼやけた。膝が震えた。五百年間カインの身体を支えてきた超常的な生命力が、瀑布のように流出していく。身体の隅々にまで行き渡っていた力が、一滴残らず引き潮のように退いていく。
筋肉が萎えていく感覚があった。骨が軋む音が聞こえた。五百年分の「普通でない」が、急速に「普通」に戻っていく。
しかし——腕だけは、リーリエを離さなかった。
力が炉に注がれるにつれて、消えかけていた炉の火が揺れ始めた。暗闇に沈みかけていた回路が、カインの紅い生命力を受けて再び脈動する。弱々しくも確かに。死にかけていた炉に、もう一度命が吹き込まれる。
リーリエの紋章が、微かに光を取り戻した。
——まだ足りない。
もっとだ。
カインはさらに深く、自分の中に眠る力を掘り起こした。超常的な寿命を支えていた魔力の源泉。初代聖女の炉の余波を浴びて変質した、人間離れした力の根幹。それは五百年間、カインの身体の奥底に沈んでいた炉の欠片のようなものだった。
それが今、一滴残らず炉に注がれていく。
カインの瞳が——変わり始めた。
深紅の瞳。五百年分の魔力が宿った異質な輝き。初代聖女の炉の余波を受けた日から、ずっとカインの目に灯り続けていた色。その紅が、徐々に薄れていく。金の光が消え、紅が褪せ、瞳の奥の異質な輝きが消えていく。
代わりに現れたのは——暗い褐色。
普通の、人間の瞳の色。
それがカイン・ヴェルトールの、本来の瞳の色だった。聖騎士だった頃の。エルシェの傍にいた頃の。まだ何者でもなかった青年の、褐色の瞳。
視界が遠くなる。身体が重い。立っているのがやっとだった。超常的な身体能力が失われ、五百年分の疲弊が——五百年間「感じなくてよかった」はずの人間としての限界が、一気に押し寄せてくる。
しかし——。
「長すぎた」
カインは呟いた。
五百年。人間の寿命の何倍もの歳月を、たった一人で歩いてきた。
友を看取った。何人も。何十人も。共に酒を酌み交わした者が老いて、衰えて、やがて冷たくなった。カインだけが変わらずに残った。
時代を見送った。国が興り、滅び、また新しい国ができた。人々の暮らしが変わり、言葉が変わり、信仰が変わった。カインだけが変わらずに見ていた。
世界が移り変わるのを眺めながら、自分だけが取り残されてきた。
その長すぎた旅のすべてが——この瞬間のためにあった。
初代聖女を救えなかった後悔。教会からの追放。魔王の汚名。孤独な放浪。古代文献の探索。リーリエとの出会い。仲間との戦い。
すべてが——この一瞬に収束する。
五百年の旅の、終着点。
最後の一滴が、炉に注がれた。
カインの身体から、超常的な力の気配が完全に消えた。
もう魔力はない。超常的な寿命もない。圧倒的な戦闘力も、結界の解析能力も、何一つ残っていない。数百年かけて蓄えた全てが、炉の中に溶けた。
カインは——普通の人間に戻った。
同じ速度で歳をとり、同じように病み、同じようにいつか死ぬ。ただの人間。何の力もない、ただの——男。
「これで——」
カインの唇が、穏やかな弧を描いた。不思議なほど、悲しみはなかった。
「対等だ」
リーリエと同じ、ただの人間。
同じ時間を生きる。同じ地平に立つ。守る者と守られる者ではなく、超常の存在と普通の少女ではなく——対等な、二人の人間として。
それがカインの望みだった。
五百年間、言葉にできなかった望み。強さを手放すことへの恐怖でも、寿命を失うことへの惜しみでもなく——ただ、リーリエと同じ場所に立ちたかった。同じ速度で歳を重ね、同じ数の朝を迎え、同じ日にこの世を去る。それが——五百年の孤独の果てにカインが見つけた、一番の望みだった。
「……カイン」
微かな声が聞こえた。
腕の中のリーリエの紋章が、弱々しくも確かな光を灯している。カインの生命力が炉を満たし、消えかけていた火を繋ぎ止めた。
リーリエの身体に、わずかに温もりが戻っている。頬にかすかな赤みが差し、閉じかけていた瞼が震えている。
しかし——まだ目覚めていない。
カインは力の抜けた腕でリーリエを抱きしめた。もう超常的な力はない。この腕でリーリエを守る力も、もうない。
ただの——人間の腕。
それでも、離さない。
「頼む。目を開けてくれ」
普通の人間になったカインの、普通の声が、炉の光の中に消えていった。




