消えかける炎
光が——消えかけた。
それは一瞬の出来事だった。世界が暗転するような、心臓を鷲掴みにされるような、あらゆる希望が足元から崩れ落ちるような——一瞬。
臨界点の直前だった。分散型の白い光が旧来の赤い光を上回ろうとしたその瞬間——あとほんの一息で不可逆の転換が起きるはずだったその瞬間、炉の構造変換が停滞した。
二つのエネルギー体系が行き場を失い、炉の中でぶつかり合う。旧い回路が最後の抵抗を見せたのか、あるいは過渡期の構造的限界に達したのか。衝撃波が炉全体を揺るがし、回路の光が一斉に暗くなった。白い光も赤い光も、同時に消えかける。
炎が——消えかけている。
カインの全身が凍りついた。
「——なっ」
炉の火が弱まっていく。さっきまで白金色に輝いていた回路の紋様が、色を失って灰色に沈んでいく。暗闇が炉の内部を四方から侵食し始める。足元の床が振動を止め、不気味な静寂が訪れた。切り替えの最中に構造が不安定化し、旧来の回路も新しい回路も機能を停止しかけている。エネルギーが行き場を失い、炉そのものが沈黙しようとしている。
世界が——止まろうとしている。
あと一歩だったのに。
臨界点まであとわずかだったのに。
その影響が——最も直接に降りかかったのは、リーリエだった。
「リーリエ!」
腕の中のリーリエの身体が、急速に冷たくなっていく。紋章の光が薄れ、脈動が弱まる。顔から血の気が引き、唇が青白くなっていく。炉と繋がっている橋渡し役の聖女に、構造停滞の全負荷が一気に押し寄せている。
リーリエの手が——力を失った。カインの手の中で、指がぐったりと垂れ下がる。
リーリエの目が——閉じかけた。
薄い青紫の瞳から光が消え、瞼がゆっくりと落ちていく。まるで糸が切れた人形のように。
「リーリエ!」
カインが叫んだ。五百年分の恐怖と愛が凝縮された、喉が裂けるかと思うほどの叫び。声が炉の壁に反響し、暗くなりゆく空間に消えていく。
リーリエの身体を強く抱きしめる。冷たい。手足が冷たい。頬が冷たい。心臓の鼓動が弱い。つい先ほどまで温もりがあったはずの手が、氷のように冷えている。命の灯が——消えかけている。
崖から落ちてきたあの日を思い出した。あのときもリーリエは冷たかった。海風に晒されて、血の気のない顔で、重力に身を委ねていた。あのとき掴んだ手も——こんなふうに冷たかった。
——五百年前の光景が、重なった。
同じ場所。同じ炉の中。同じように命の灯が消えかける瞬間。
あのとき——エルシェの手がカインの手から滑り落ちた。金色の髪が光に溶けていった。翠色の瞳が閉じていった。微笑んだまま、涙を流しながら。カインの叫びは届かなかった。
また——繰り返すのか。
恐怖が全身を覆った。氷水を頭から被ったような。五百年分の恐怖。凍りつくような絶望。あの日から一日も忘れたことのない、胸を鉄の手で握りつぶされるような感覚。
五百年間の悪夢が、現実になろうとしている。
夢の中で何百回も見た光景。腕の中の人が冷たくなっていく。名前を呼んでも返事がない。手を握っているのに、指が力を失い、滑り落ちていく。
今度こそ——今度は、隣にいるのに。手を握っているのに。炉の中にいるのに。五百年かけて準備して、ここまで辿り着いて、それでもまだ——足りないのか。
それでも——失うのか。
「嫌だ」
声にならない叫びが喉の奥で潰れた。
リーリエの身体が、さらに冷たくなる。
紋章の光が、ほとんど消えた。微かな明滅を繰り返しているが、それすらもうすぐ止まる。
世界の結界が大きく揺らいだ。炉の火が弱まったことで、各地で結界が薄くなり始めている。災厄の気配が侵入しかける。空が翳り、大地が震え、人々が不安に空を見上げる。
炉の外で仲間たちの悲鳴が聞こえた。
「お嬢様!」
「炉の火が——消える!」
リュカの叫び。レオンハルトの叫び。
しかしカインの耳には、それらの声は遠かった。
腕の中のリーリエだけが——世界の全てだった。
「リーリエ」
カインは囁いた。震える声で。
返事がない。
リーリエの瞼は閉じかけている。呼吸が浅い。脈が弱い。指先が冷たい。
カインの中で、何かが切れた。
恐怖が——消えた。
恐怖の向こう側にあったのは、静かな覚悟だった。五百年前にはできなかったこと。あのとき、もしカインに十分な力があったなら、迷わずそうしていたこと。
エルシェのために、すべてを注ぐこと。
あのときはできなかった。力がなかった。手段がなかった。炉の外から見ているしかできなかった。
しかし今は——カインの中にまだ力がある。数百年分の生命力が残っている。それを全て——残さず、注ぎ込めば。
「——お前は死なせない」
カインはリーリエを抱きしめたまま、目を閉じた。
「絶対に」
身体の奥底に残った生命力——数百年分のすべてを、解放する準備をした。
これを注げば、カインの超常的な寿命は完全に消える。五百年かけて蓄えた力のすべてが、炉に、リーリエに流れ込む。
普通の人間に戻る。いや——普通の人間以下かもしれない。身体が持つ保証はない。命が持つ保証すらない。
構わない。
リーリエが生きるなら。この世界に、リーリエの笑顔が残るなら。あの淡々としたツッコミが聞けるなら。「嘘つき」と呆れた顔で言ってくれるなら。
朝に「おはよう」と言ってくれるなら。「嘘つき」と呆れた顔で笑ってくれるなら。
それだけで——充分だ。五百年分の命と引き換えにしても、余りある。
カインは静かに息を吸い込んだ。炉の光が赤と闇の間で揺れている。世界が終わりかけている。けれどカインの心は——凪いでいた。嵐の目のように。静かで、透明で、揺るぎない。
腕の中のリーリエの髪を撫でた。銀灰色の、光の加減で淡い紫にも見える髪。初めて会ったときから変わらない——いや、あの頃より少しだけ艶が出た髪。
この子を守るためなら、世界を捨てると言った。あの言葉に嘘はなかった。五百年の旅の果てに辿り着いた、たった一つの真実。
ならば——自分を捨てることなど、何でもない。むしろ、望んでいたことだ。
腕の中のリーリエが、微かに——本当に微かに、カインの胸に頬を寄せた。意識があるのかないのかもわからない。けれどその仕草が——カインの心の最後の迷いを消した。
リーリエの髪に顔を埋める。銀灰色の、冷たくなりかけた髪。それでも——この匂いは変わらない。カインがこの世界で一番大切に思う匂い。
決断した。




