満月の晩
満月だった。
窓の外から差し込む月光が、部屋の中に青白い影を落としていた。壁の織物が銀色に染まり、床の石が鏡のように光を返している。空気は冷たく澄み、吸い込むと肺の奥まで届くような清涼感があった。暖炉の火は落とされていて、部屋には月の光だけが満ちている。
夜空に浮かぶ月が異常に大きく近く見える夜がある。空気が澄み、雲がなく、月の光が地上を白く照らす夜。今夜がそれだった。月の表面の陰影まで見えそうなほど、近くて、鮮やかだった。
リーリエは窓辺に座っていた。部屋の灯りを消し、月明かりだけの中で。
銀灰色の髪が月光に照らされ、薄紫に光っている。窓の外に広がる庭園が銀色に染まり、噴水の水面が月を映して揺れている。
美しい夜だった——と思った。
思った、ということに少し驚いた。「美しい」という感想が、自然に浮かんだ。教会にいた頃は、月を見ても何も感じなかった。痛みが全てを塗り潰していた。
ここに来て——月が美しいと思えるようになった。
それが嬉しいことなのか、怖いことなのか。感情が戻るということは、痛みもまた鮮明になるということだ。感じないことで守られていた何かが——崩れ始めている。
足音がした。
廊下から。革靴が石を踏む低い音。もう驚かない。この時間にリーリエの部屋の前を通る足音は、一つしかない。
「月が綺麗ですよ」
扉越しに声をかけた。
足音が止まった。
数秒の長い沈黙の後、扉が開いた。
「起きていたのか」
「ええ。月を見ていました」
カインが部屋に入ってきた。窓辺に歩み寄り、月を見上げた。深紅の瞳に月の光が映り、金色の光が混じっている。
「月が好きか」
「……嫌いではありません」
カインの口元が動いた。
「また『嫌いではない』か」
「他に言い方を知りません」
「『好き』と言えばいい」
「好きかどうか、わかりません。ただ——嫌ではないことは、わかります」
カインが窓枠にもたれた。月の光がカインの黒い髪を藍色に染め、深紅の瞳に銀の粒を散らしている。月を見ている。あるいはリーリエを見ている。月光の中では、どちらを見ているのか判別がつかない。
「お前は何でも『嫌いではない』だな」
「はい」
「雨も、沈黙も、茶も、花も」
「ええ。全部、嫌いではありません」
「俺は」
カインが聞いた。低い声で。月明かりの中でカインの横顔に影が落ち、頬の線が普段より鋭く見えた。吐く息が白く曇り、夜の冷たさを伝えている。
「俺も、嫌いではないか」
月の光が二人の間に差している。カインの深紅の瞳に、月光が金色の粒を散らしている。その目が真っ直ぐにリーリエを見ている。逃げていない。誤魔化していない。
リーリエは一瞬、言葉に詰まった。
予想しなかった問い。カインがこういう聞き方をすることは——今までなかった。いつもは行動で示し、言葉で聞くことを避ける人。その人が「俺は嫌いではないか」と聞いた。
「……嫌いであれば、ここにはいません」
リーリエの答えは——答えているようで、答えていなかった。けれどカインは追及しなかった。
代わりに——笑った。
微かに。口角が持ち上がり、深紅の瞳が細くなった。月光に照らされた顔に浮かぶ、穏やかな笑み。威圧感のない、柔らかい表情。
リーリエは——言葉を失った。
カインの笑顔を見た。初めて——いや、初めてではないかもしれない。けれどこれほどはっきりと、これほど近くで見たのは初めてだった。
不器用で、ぎこちなくて、けれど——温かい笑顔。
胸が跳ねた。
心臓が一拍、強く鳴った。結界の痛みとは全く違う、鋭い感覚。苦しいのではない。驚いたのだ——身体が、勝手に反応した。
「どうした」
カインが聞いた。リーリエの表情の変化に気づいたのだろうか。
「……何でもありません」
顔を逸らした。月を見た。月は変わらず美しく光っている。しかし月の光が——さっきまでと違って見えた。
「部屋に戻ります」
「まだ月が出ている」
「十分見ました」
リーリエはベッドに向かった。カインが「おやすみ」と言い、部屋を出ていった。扉が閉まる。足音が遠ざかる。
リーリエはベッドに座り、自分の胸に手を当てた。
心拍がまだ速い。
カインが笑った。それだけのことだ。人間は笑う。魔王だって笑う。何も特別なことではない。
なのに——胸が跳ねた。
なぜ。
この感情に、名前がない。
嫌悪ではない。恐怖でもない。驚き——は近いが、それだけでは説明がつかない。カインの笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが動いた。凍っていたはずの場所が——一瞬だけ、熱を持った。
「……面倒です」
呟いた。枕に顔を埋め、深い息をついた。シーツの匂いがする。マリカが毎日替えてくれる清潔な布の匂い。教会の薄い敷布には匂いがなかった。石の匂いしかしなかった。
目を閉じた。けれど瞼の裏に、カインの笑顔が残っている。穏やかで、温かくて、不器用な笑み。月の光の中で見たあの表情が、まるで版画のように鮮明に焼きついている。
面倒だ。こんな感情は。知らなかった頃が楽だった。何も感じない氷の中にいた頃が。痛みしかなかった頃が。痛みだけなら慣れていた。けれどこの胸の高鳴りには——慣れ方がわからない。
名前をつけたくない。つけてしまったら、もう後には戻れない気がする。
心拍が落ち着くまで——しばらくかかった。
月が窓から静かに差し込み、部屋を白く照らしている。壁にはリュカの似顔絵が飾られている。机には花の髪飾り。庭園にはリーリエの花壇。
持ち物が増えている。
そして今日——持ち物ではないものが、一つ増えた。
カインの笑顔の記憶。
それを「持ち物」と呼ぶのは間違っているだろう。けれど確かに、リーリエの中に刻まれた。消そうとしても消えない何かとして。
枕を抱え直し、シーツの冷たさに身を沈めた。部屋の隅で暖炉の残り火がちりちりと弱い光を放ち、天井に揺れる影を落としている。月が傾くまで——リーリエは眠れなかった。
窓から差し込む月光が、時間とともに角度を変えていく。壁の影が動き、リュカの似顔絵の上を光が横切り、やがて窓の外に退いていった。部屋が暗くなっても、瞼の裏のカインの笑顔だけは——消えなかった。




