図書室の午後
歴史書は嘘をつく。
リーリエは書庫の奥まった棚から、分厚い革装丁の本を引き出した。『聖女列伝——神に捧げし光の乙女たち』。金文字の題名が仰々しい。革の表紙は使い込まれて艶が出ており、角が丸くなっている。誰かがこの本を何度も開いたのだろう。けれどそれは真実を求めてではなく、美しい物語を読みたかっただけかもしれない。
頁を開く。古い紙の匂いが鼻先を擽った。黄ばんだ頁に、細かい活字が並んでいる。
——初代聖女は、世界を救うために自らの命を神に捧げた。その崇高なる犠牲により、結界は灯り、人類は災厄から守られた。以来、聖女の血統は世代を超えて受け継がれ、神に選ばれし乙女たちが世界を護り続けている。
リーリエは頁を繰った。指先で文字をなぞりながら、静かに読み進める。
——第七代聖女アンネリーゼは、祈りの中で微笑みながら召された。「世界のために生きられたことが、私の幸福です」と語ったと伝えられる。
さらに頁を繰る。紙が指の腹に擦れる乾いた音が、静まった書庫に小さく響いた。
——第十二代聖女カタリーナは、覚醒の日に涙を流した。しかしそれは悲しみではなく、使命を与えられた喜びの涙であった。
リーリエは本を閉じた。革の表紙が音を立てて合わさり、埃が微かに舞い上がった。
「嘘ばかり」
声は小さく、書庫の静寂に吸い込まれた。高い天井に並ぶ本棚が、その声を飲み込んだ。
微笑みながら死んだ聖女。喜びの涙を流した聖女。美しい物語。崇高な犠牲。読者が感動し、教会が利用し、世界が忘れる——便利な美談。
リーリエは聖女の「現実」を知っている。身体で知っている。今もなお左胸の紋章が静かに脈打ち、骨の奥を灼き続けているのだから。
覚醒した瞬間から、全身を灼く鈍痛が始まること。命が一滴ずつ搾り取られていく感覚。まるで骨の中に灼熱の砂を流し込まれるような、決して慣れることのない苦痛。眠っても痛みは消えないこと。夢の中ですら身体が灼けていること。痛みに耐えるために感情を閉じていくこと。
微笑みながら死んだ? 笑えるわけがない。痛みで笑顔の作り方を忘れる。頬の筋肉が強張り、口角を上げることすらできなくなる。喜びの涙? 流せる涙があるなら、それは恐怖の涙だ。あるいは——涙すら枯れた後の、乾いた諦めだ。
教会はそれを知っている。知っていて——美談に書き換えた。聖女を「神に愛された存在」として描くことで、制度を正当化し、次の聖女を用意し、世界の仕組みを維持している。
リーリエは棚に本を戻し、別の歴史書を手に取った。こちらはカインの蔵書で、教会の検閲を受けていない。表紙の革は教会版より粗いが、中身は段違いに誠実だった。
——聖女制度の起源は曖昧である。教会は「神の恩寵」と説明するが、古い記録には「炉」と呼ばれる装置の存在を示唆する文言がある。聖女の力は先天的な資質ではなく、炉との接続によって発現する可能性がある——
興味深い記述だった。教会の公式見解とは全く異なる。リーリエは頁に栞を挟んだ。指先が微かに震えていたのは、寒さのせいか、それとも——真実に近づく予感のせいか。
夕食前、リーリエはカインの前に座った。食堂のテーブルに湯気の立つスープが並び、パンの焼ける香ばしい匂いが漂っている。
「聖女の歴史書を読みました」
カインのスプーンが止まった。
「美しい話ばかりですね。微笑みながら死んだ聖女。喜びの涙を流した聖女」
「……ああ」
「あなたは聖女の本当の姿を知っていますか」
カインの表情が微かに曇った。深紅の瞳が揺れ、スプーンをゆっくりと皿に置いた。金属が陶器に触れる小さな音が、二人の間に落ちた。
「何を聞いた」
「何も。ただ、あの歴史書が嘘だと知っているだけです。聖女を十五年やれば、嘘と本当の区別はつきます」
カインが沈黙した。蝋燭の灯りが揺れ、カインの顔に陰影を落としている。顎の筋肉が微かに動いた。
リーリエは待った。追及するのではなく、ただ待った。カインが答えるなら聞く。答えないなら、それでいい。
「……教会の歴史書は、教会に都合のいい歴史しか書かない」
カインが低い声で言った。声が食堂の石壁に沁み込むように響いた。
「聖女の犠牲を美談にすることで、制度を維持している。次の聖女を用意するために——犠牲が『崇高なこと』でなければならない」
「知っていたのですね」
「ああ。俺は——教会の嘘を、誰よりも知っている」
その言葉の重さに、リーリエは黙った。「誰よりも」。カインがそう言うとき、そこには数百年の重みがある。スープの湯気が二人の間を漂い、静かに天井へ消えていった。
「いつか——全部話す」
カインが言った。リーリエを見て。深紅の瞳に、決意に似た光が宿っていた。
「今は、まだ話せない。だが、いつか」
「……急ぎません」
リーリエは食事に戻った。カインも同じように。しかし二人の間の空気が、少し変わっていた。目に見えない糸が一本、二人の間に張られたような。
共犯——とまでは言えない。しかし「教会が嘘をついている」という認識を、二人は共有した。それは小さな一歩だが、確かな繋がりだった。世界を覆う巨大な嘘の前で、二人だけが真実を知っている——その孤独と連帯が、食卓の上に静かに横たわっていた。
食後、リーリエは庭園に出た。食器を下げるマリカに「ごちそうさまでした」と言う自分がいた。教会ではそんな言葉を使ったことがなかった。
夕暮れの庭園で、花を見た。白い花弁が夕陽に染まり、橙と白の境界が花弁の上で揺れている。歴史書に描かれた聖女の姿は嘘だ。しかしこの花は嘘をつかない。水をやれば咲き、やらなければ枯れる。
魔王城には、嘘がない。
マリカの優しさも、リュカの軽口も、ヴェルナーの無愛想な忠誠も——全部、本物だ。
そしてカインの「いつか全部話す」も。
リーリエは花に手を伸ばし、花弁に触れた。柔らかい。夕陽の温もりが花弁に宿っていて、指先にほんのりと熱が伝わった。
「崇高でも、美しくもない」
呟いた。風が花壇を撫でて通り過ぎ、花弁が微かに震えた。
「ただ——疲れているだけです」
それが聖女の真実。教会の歴史書には決して書かれない、たった一行の本当のこと。
けれどこの庭園で——花に囲まれて、夕陽の残り香を吸い込みながら——その疲れが、ほんの少しだけ軽い気がした。嘘のない場所で呼吸をすると、胸の奥の灼熱すら、僅かに和らぐ。
それは、とても不思議なことだった。




