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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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魔王の庭園

 カインが「見せたいものがある」と言った。


 朝食の後の廊下は、マリカが開け放った窓から入る風が通り抜けて気持ちよかった。春の終わりの柔らかい光が石壁を温め、廊下の角々に小さな光溜まりを作っている。花壇から漂ってくる甘い匂いが、風に混じって廊下を抜けていく。


 リーリエが書庫に向かおうとすると、カインが廊下に立っていた。腕を組み、壁にもたれている。


「見せたいもの」


「ああ。来い」


 理由を聞く前に歩き出す。カインはいつもこうだ。説明が足りない。しかしリーリエはもう慣れてしまった。黙ってついていく。


 城の南側。渡り廊下を抜け、アーチ型の門をくぐる。門の先に——


 リーリエの足が止まった。


 庭園だった。


 石壁に囲まれた、静かな空間。花壇には色とりどりの花が咲き誇り、中央に小さな噴水がある。水が穏やかに流れ落ち、澄んだ音を立てている。壁沿いにはつる薔薇が這い、白や淡紅の花が壁面を彩っていた。


 ベンチが二つ。花壇の間に小さな石畳の小道。そして隅には——書庫から本を持ち出して読めるように、屋根つきの読書席が設えてあった。


 リーリエの目が、わずかに見開かれた。


「……これは」


「庭園だ。城の奥にある。あまり使っていなかったが——手入れはしてある」


 手入れはしてある。その言葉の裏に、カインがこの場所をリーリエのために準備していたことが透けて見える。花の種類は、リーリエが庭で世話をしていたエーデルフラウを含めた白い花が中心。読書席があるのは、リーリエが書庫で本を読む姿を見ていたからだ。


「ここはお前の好きに使え」


 カインが言った。庭園の中を歩きながら、花壇を指差す。


「花を植えてもいい。本を読んでもいい。一人になりたいときに来ればいい。ここには俺以外、誰も入れさせない」


「俺以外」の部分が引っかかったが、リーリエは聞き流した。


「……なぜ」


「なぜ?」


 噴水の水音が二人の間を満たし、花壇から吹いてくる風が甘い匂いを運んでくる。陽光が石畳の上で小さな光の粒を散らしていた。


「なぜ、ここまでするのですか」


 この問いは、以前にもしたことがある。カインに拾われたとき。茶を淹れてもらったとき。書庫を開放されたとき。そのたびに「理由がいるのか」「お前に関係ない」とはぐらかされた。


 しかし今日は——問い方が違った。


 声に、力があった。


 以前の「なぜ」は形式的な問いだった。答えを期待していない、ただ疑問を口にするだけの。今日の「なぜ」には——本当に知りたいという意志が宿っていた。


 カインが足を止めた。リーリエを見た。


「俺がそうしたいからだ」


「それは答えになっていません」


「唯一の答えだ」


「カインさま」


「何だ」


「『そうしたい』の理由を聞いています」


 カインが黙った。深紅の瞳がリーリエを見ている。リーリエの薄い青紫の瞳が、カインを見返している。


 沈黙が数秒続いた。噴水の水音だけが響いている。花壇の花が風に揺れ、甘い香りが漂う。


「……お前が、ここにいるからだ」


 カインが言った。低い声で。視線を逸らしながら。


「お前がこの城にいる。飯を食って、本を読んで、花に水をやっている。だから——お前がいる場所を、居心地よくしたい。それだけだ」


 リーリエは瞬きをした。


 「それだけ」と言いながら、それは——大きなことではないだろうか。誰かがいる場所を居心地よくしたいと思うこと。そのために庭園を整え、花を植え、読書席を作ること。


 言葉にすれば単純だ。しかしその行為の奥にある感情は——リーリエにはまだ、名前をつけられなかった。


「……わかりました」


 リーリエは庭園の中を歩いた。足元の砂利が靴の下で乾いた音を立てる。花壇からは朝露と花弁の甘い香りが漂い、噴水の水飛沫が微かに肌を濡らした。 石畳の小道は細かい砂利で整えられ、歩くたびにさくさくと心地よい音がした。花壇からは甘い香りが漂い、噴水の水音が空間を柔らかく満たしている。花壇を見て回り、噴水に手を伸ばした。水に指先を浸す。冷たい。けれど不快ではない。透明な水が指の間を流れ落ちていく。


 読書席に座ってみた。木製の椅子に薄いクッションが敷かれている。頭上に屋根があり、日差しを遮ってくれる。風が通り、花の匂いが漂う。


「……嫌ではないです」


 リーリエが呟いた。


「そうか」


 カインが庭園の入口に立ち、腕を組んでいた。表情はいつもの無愛想。しかしその無愛想の奥に——満足のようなものが、微かに覗いていた。


「ここは」


「ここは?」


 リーリエは噴水を見つめた。水が光を受けて輝いている。


「嫌ではない、です」


 同じ言葉を繰り返した。まだ「好き」とは言えない。「居心地がいい」とも言えない。リーリエの語彙では——「嫌ではない」が、最上級の肯定だった。


 カインはそれを知っている。だから——小さく、頷いた。


「好きに使え」


 カインが去った後、リーリエは一人で庭園に残った。カインの足音が遠ざかり、門の向こうに消えた。一人になった庭園は、急に広くなったように感じた。けれど寂しくはなかった。カインがここを「リーリエの場所」にしてくれたのだ。一人であっても、孤独ではない場所。


 ベンチに座り、花を見つめた。木の座面は陽光で温められていて、座った瞬間にほっと息がこぼれた。噴水の水音を聞いた。風が髪を揺らし、花弁がひとひら、石畳に落ちた。


 静かだった。孤独ではない静けさ。自分だけの場所がある、という安心の静けさ。


 リーリエはポケットに手を入れた。市場で買ってもらった花の髪飾りが、まだそこにあった。


 出さなかった。ただ指先で触れただけ。銀線の冷たさと、小さな花の感触。


 持ち物が増えている。花の飾り。リュカの絵。そして今日——庭園。


 死にたがりの少女の世界に、少しずつ「自分のもの」が増えていく。


 それが怖いことなのか、嬉しいことなのか——リーリエにはまだ、わからなかった。ただ胸の奥で、何かが微かに震えていた。


 噴水の水音を聞きながら、リーリエは目を閉じた。花の匂いが鼻先を撫で、風が頬を掠める。こういう瞬間に——痛みを忘れている自分がいる。身体の灼熱は消えていないのに、意識の表層が別のもので満たされていて、痛みが底に沈んでいる。


 それが救いなのか、逃避なのか。リーリエにはまだ、判断がつかなかった。


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