橋渡し
聖なる炉の中核は、光そのものでできていた。白と金と、名前のつかない色が渦を巻いている。
リーリエの指先が回路に触れるたびに、世界の奥底で何かが震える。それは結界の脈動であり、五百年にわたって聖女の命を喰らい続けてきた仕組みの鼓動でもあった。
一点集中型の回路。たった一人の命を燃料にして、世界を覆う結界を維持するための残酷な設計。初代聖女エルシェが時間に追われて選ばざるを得なかった、妥協の産物。
「……ここを、切り替える」
リーリエは呟きながら、回路の一つに手を伸ばした。
炉の内部は灼熱の光に満ちていたが、不思議と視界は明瞭だった。橋渡しの媒介として炉と繋がっている今、リーリエの目には回路の構造がそのまま見える。光の糸が何百本と交差し、複雑な紋様を描いている。その一本一本が命の通り道であり、全てがリーリエの胸の紋章へと収束していた。
この収束を、解く。
一本の命から、万の祈りへ。
指先で回路の分岐点を探り当て、エネルギーの流れを分散型の経路へ誘導する。初代聖女が遺した設計図の通りに——いや、リーリエ自身が炉と共鳴することで、設計図以上の精度で回路を読み解いていく。五百年前にエルシェが描いた理論。時間さえあれば実現できたはずの、もう一つの道。その道を今——リーリエの手で開く。
最初の回路が切り替わった瞬間、世界のどこかで結界が揺れた。
遠い辺境の村で、空が一瞬だけ暗くなったかもしれない。海の向こうの島国で、風が不自然に止んだかもしれない。結界の紋様の一つが書き換わるだけで、世界全体に影響が及ぶ。それほどまでに、聖女の命と結界は一体化していた。
「——っ」
その衝撃が、そのままリーリエの身体を貫いた。背骨を灼かれるような痛みが走り、一瞬、膝が抜けかける。口の中に鉄の味が広がる。
回路を一つ切り替えるたびに、炉の全負荷が一瞬だけリーリエの身体に集中する。切り替えの途中は旧来の経路も新しい経路も不安定になるため、その隙間を橋渡し役の聖女が——リーリエが、自分の命で埋めなければならない。
二本目。激痛。呼吸が一拍止まる。
三本目。紋章が脈動する。左胸が灼ける。
四本目。視界の端が白く飛ぶ。
切り替えるごとに、負荷が重くなっていった。
左胸の紋章が赤く脈打ち始めた。じくりと灼けるような痛みが広がる。覚醒してからずっと続いていた鈍痛とは質の違う、鋭い消耗の感覚。命が——燃料として、急速に消費されている。
呼吸が荒くなった。額に汗が浮かぶ。指先が細かく震え、次の回路を掴むのに以前より時間がかかる。
五本目。
膝が笑った。立っているのがやっとだった。炉の光が視界をちらつかせ、回路の紋様がぼやけて見える。
「止まれない」
リーリエは自分に言い聞かせた。歯を食いしばり、次の回路に手を伸ばす。爪が回路の光に触れ、指先に灼けるような熱が走る。
「止まったら、全部無駄になる」
六本目の回路に触れた瞬間、激しい痛みが全身を走った。紋章が赤く燃え上がり、リーリエの視界が一瞬白く弾ける。身体が傾ぎ、膝をつきかけた。口の中に鉄の味が広がる。
——それでも、手は止めなかった。
ここで止まれば、切り替え途中の回路が暴走する。炉が崩壊し、結界が消え、世界が終わる。止まるという選択肢は、最初からない。
七本目。回路の光が指先を焼き、皮膚の下を電流が走るような痛みが腕を伝う。
八本目。紋章が赤く燃え上がり、左胸が内側から焼かれているような感覚。心臓が紋章ごと灼き潰されそうだった。
意識が遠のきかける。自分の身体がどこにあるのか分からなくなる瞬間がある。手が回路に触れているのか、それとも虚空を掴んでいるのか。感覚が薄れていく。命という名の燃料が底を突きかけている。
炉の光の中で、リーリエは思った。
こんなに苦しいのに、不思議と——怖くはなかった。
かつてなら、この苦痛を理由に全てを投げ出していたかもしれない。聖女の祭壇で、終わらない痛みに耐えかねて崖から身を投げたあの日のように。痛みから逃れるために、死を選んでいたかもしれない。
でも今は——。
——そのとき、背中に温もりを感じた。
炉の外からだった。
光の壁の向こうに、確かな気配がある。大きくて、強くて、不器用で温かい気配。カインだ。炉の外で待っている。まだ入ってこない——まだ入るべき時ではないと、あの人も分かっている。けれど、そこにいる。リーリエが折れないように、見守っている。
リーリエは微かに唇の端を持ち上げた。
いてくれる。
それだけで、指先に力が戻った。
かつて、誰がいようといなかろうと同じだと思っていた。世界のどこにも自分の居場所はなく、生きていることそのものが苦痛でしかなかった。あの頃のリーリエなら、この痛みの先に何も見出せなかっただろう。
でも今は違う。
痛みの先に、帰る場所がある。帰りたい場所がある。
「……カイン」
声にならない呟き。炉の光に溶けて消える。
それでも、あの人にはきっと届く。
九本目の回路に手を伸ばしながら、リーリエは思った。
一人じゃない。
たとえ炉の中核に立つのが自分一人でも、炉の外にあの人がいる。その事実が、折れかけた心を繋ぎ止めてくれる。死にたいと思っていた少女を、今もこうして生かしてくれている。
しかし——消耗は確実に加速していた。
十本目の回路を切り替えたとき、紋章の光が明滅した。蝋燭の炎が風に煽られるように、不規則に揺れている。それが何を意味するか、リーリエには分かっていた。命の残量が危険域に達しつつある。砂時計の砂が底を見せ始めている。このままのペースでは、全ての回路を切り替え終える前に、リーリエの命が尽きる。
指先が震えた。次の回路が、遠い。手を伸ばしても届かないような気がする。光の中で回路の紋様がぼやけ、どれが次に触れるべき回路なのか、判別するのに時間がかかった。
身体が重い。光が眩しい。足の感覚がなくなりかけている。痛みが、どこからどこまでが痛みなのか分からないほどに全身を覆っている。五感が薄れ、世界が遠くなっていく。炉の光も、回路の紋様も、自分の身体の輪郭さえも、遠い霧の向こうに沈んでいくようだった。
「——もう少し」
リーリエは腕を持ち上げた。鉛のように重い腕を、それでも持ち上げた。
もう少し。もう少しだけ。
カインが動く時が、近い。それまで——持ちこたえなければ。
カインの鼓動が、結界の向こうから伝わってくる気がした。リーリエの紋章が——その鼓動に応えるように、微かに温かく脈打った。
炉の外の気配が、一歩近づいた気がした。




