最後の言葉
リーリエの姿が光の中に消えていく——その直前。
立ち止まった。
カインの心臓が止まりかけた。何か問題が起きたのか。身体に異変があったのか。炉が拒絶したのか。
リーリエが——振り返った。
光を背にしていた。銀灰色の髪が炉の光を受けて輝いていた。薄い青紫の瞳が——カインを見つめていた。
その表情に——恐怖はなかった。諦めもなかった。悲壮感もなかった。
笑っていた。
穏やかに。温かく。目尻が下がって、頬が少しだけ上がって。目が——笑っていた。
かつてのリーリエの笑みは、目が笑っていなかった。穏やかな顔をしていても、薄い青紫の瞳だけが虚ろだった。感情が凍結した笑み。誰に向けたものでもない、世界から切り離された笑み。
今——目が笑っている。カインに向かって。
「あとで、ね」
たった四文字。
短い。あまりにも短い。しかしその四文字に——三百五十話分の重みがあった。
「あとで」。
その言葉は「未来がある」ことを前提としている。「また会える」ことを信じている。
死にたがりだった少女に——「あとで」は存在しなかった。未来なんて要らなかった。明日も明後日も、ただの苦痛の延長でしかなかった。
今、リーリエが「あとで」と言った。
「あとで」がある世界に生きている。
カインの視界が——滲んだ。
泣くまいと思った。五百年間、泣かなかった。初代聖女が炉に消えたときも。追放されたときも。独りで世界を彷徨ったときも。泣いたら——止まる。止まったら——壊れる。だから泣かなかった。
だが今——滲んだ。
「ああ」
声がかすれた。
「あとでな」
それだけしか言えなかった。
他に言うべきことは山ほどあった。「気をつけろ」「無理するな」「待ってる」。五百年分の言葉が喉の奥に詰まっていた。しかし出てきたのは——「あとでな」の三文字だけだった。
それで充分だった。
リーリエが——また笑った。目を細めて。涙が光の中できらきらと輝いていた。
そして——向き直った。前を向いた。
炉の光の中へ、歩いていった。
今度は振り返らなかった。まっすぐに。自分の足で。
小さな背中が光に溶けていった。銀灰色の髪が光に呑まれ、輪郭が消え——いなくなった。
カインは——拳を握った。
爪が掌に食い込んだ。痛みで意識を繋ぎ止めた。
五百年前と同じだ。炉の向こうに聖女が消えた。光の中に。手の届かない場所へ。
だが——五百年前とは違う。
あのとき、カインは炉の外から見送るしかできなかった。扉が閉まり、開けられなかった。初代聖女は「あとを頼むわ」と微笑んで消えた。「あとで」ではなかった。「さよなら」だった。
リーリエは——「あとで」と言った。
「あとで」だ。「さよなら」じゃない。
「待ってろ。すぐに行く」
カインは呟いた。
まだだ。リーリエが炉の回路を半分切り替えるまで。その瞬間を待って——カインも炉に入る。五百年分の生命力を注ぎ込み、回路の切り替えを完了させる。
今度は——炉の外にはいない。
今度こそ——中に入る。
カインは炉を見つめた。光の柱が揺れていた。リーリエがその中にいる。中核に向かっている。紋章を媒介に、五百年の歴史を変えようとしている。
待つ。
信じて——待つ。
五百年分の後悔を超えて。
数百年前の初代聖女との約束と——今日のリーリエとの約束。
「あとで」。
その約束を果たすために。
カインの深紅の瞳に、炉の光が映っていた。金色の光が混じった。揺れていた。しかし——逸らさなかった。
待っている。お前を。
——あとでな。




