儀式の支度
儀式の準備が始まった。
カインは炉の前に座り込み、古びた羊皮紙を広げていた。初代聖女エルシェが遺した設計図の写し。五百年前の筆跡が薄れかけた紙面に、炉の構造と——分散化の手順が記されている。
五百年間、この紙片を守り続けた。何度も読み返した。暗記している。それでも——今日は手順を間違えるわけにはいかない。
「一点集中型の回路を、分散型に切り替える」
カインが声に出して確認した。リーリエが隣で頷いている。
「エルシェの設計では、炉の中核にある集約点を解体し、回路をネットワーク状に再編成する。中央の一点——聖女の命——に頼る構造を捨て、世界中の人々の『祈り』を微弱なエネルギーとして集める分散構造に変える」
「一人の大きな炎から、万人の小さな灯火へ」
リーリエが呟いた。
「そうだ。理論上は成立する。エルシェがそう計算した。問題は——」
「実証がないこと」
「ああ。万人の祈りが本当に炉を灯すかどうか、やってみなければわからない」
二人は互いを見つめた。炉の光が二人の顔を照らしていた。
「怖いか」
カインが聞いた。
この問いを何度繰り返しただろう。崖の上で拾った日から。魔王城で。旅の途中で。戦場で。何度も何度も。
「怖い」
リーリエは正直に答えた。
「でも——やりたい」
その言葉に、カインは微かに目を見開いた。
「やりたい、か」
「ええ。怖いけど、やりたい。歴代聖女たちの想いを聞いたから。『痛い』『怖い』『帰りたい』——あの声を聞いて、もう迷わない。この炉を変えたい。変える」
「……俺もだ」
カインが認めた。
「怖い。五百年前と同じ結末になるかもしれない。失敗するかもしれない。——それでも、やらなければならない。俺もそう思っている」
二人は互いの恐怖を——共有した。
出会った頃は、二人は互いに感情を隠していた。リーリエは「疲れただけ」と死を穏やかに語り、カインは「世界のためだ」と嘘をついた。どちらも本音を見せなかった。
三百五十話を経て——互いの弱さを見せ合えるようになった。恐怖を認めることが、弱さではなく——信頼の証だと、わかったから。
上階から足音が聞こえた。螺旋階段を降りてくる複数の気配。
リュカが小魔族たちを引き連れて降りてきた。手には医療道具と食料と、何やら大きな包み。
「お嬢、最終確認っす」
「リュカ」
「身体の状態チェックします。炉に入る前に、少しでもコンディション整えとかないと」
リュカが手際よくリーリエの脈を取り、額に手を当て、瞳孔を確認した。魔王城で五十年間、万能従者をやってきた男の手つきは慣れたものだった。
「脈拍やや速めだけど正常範囲内。体温は平熱。紋章の脈動が強いけど——これは炉との共鳴だから仕方ないっすね」
「ありがとう、リュカ」
「で、これ」
リュカが大きな包みを開いた。中から出てきたのは——外套だった。黒い、丈夫な布地の外套。魔王城でリーリエが着ていたものと同じ仕立て。
「旦那様の趣味じゃないっすよ。前の外套、戦闘で破れてたんで。新しいの持ってきました。これ着て炉に入ってください。少しでも熱から身を守れるように、耐火の術をかけてあります」
「……リュカ、いつの間に」
「昨夜のうちっす。寝れなかったんで」
リュカの声が——少しだけ震えた。
「お嬢様。無事に帰ってきてくださいね」
「お嬢」ではなく「お嬢様」だった。リュカがその呼び方をするのは——本気のときだけだった。
「帰るよ。約束する。——リュカのご飯、楽しみにしてるって言ったでしょ」
「はい。——最高の飯、作って待ってますから」
リュカが深く頭を下げた。それから顔を上げ、いつもの軽い笑顔を作った。目が少し赤かったが——笑っていた。
「旦那様も。怪我して帰ってきたら、飯抜きっすよ」
「飯は自分で作れる」
「旦那様の料理は生命に関わるんで勘弁してください」
カインが無言で睨んだ。リュカが肩をすくめた。
いつもの光景。いつもの掛け合い。しかしその裏にある感情は——いつもとは違った。
リュカが去っていった。階段を上がっていく後ろ姿が、一度だけ振り返った。手を振った。そして——いなくなった。
炉の前に、二人きりになった。
地底空洞の静寂が、二人を包んでいた。炉の光が白く、青く、金色に——絶え間なく色を変えながら揺れている。その光に照らされた二人の顔は、陰影が深く刻まれていた。疲労と緊張と、それでも消えない決意と。
カインが設計図を畳み、懐にしまった。
「手順は頭に入っている。——あとは、やるだけだ」
「ええ」
リーリエは新しい外套を羽織った。温かかった。リュカの気持ちが込められているような温かさ。
「カイン」
「ん」
「私が先に炉に入る。中核にたどり着いて、回路の組み替えを始める。あなたは——」
「お前の後を追う。俺が入るタイミングは、お前が回路の半分を切り替えた時点だ。そのとき、俺が五百年分の生命力を炉に注ぎ込む。補助燃料として。それで回路の切り替えが完了する」
「そうすると、あなたは——」
「普通の人間に戻る」
カインの声は淡々としていた。
「超常的な寿命も、魔力も、すべて失う。五百年分の生命力を手放して——ただの人間になる」
「犠牲じゃないの?」
「犠牲じゃない」
カインが——微笑んだ。
珍しかった。この男が笑うのは。しかも——穏やかに。
「ようやく人間に戻れるんだ。五百年間、化け物のように生きてきた。やっと——普通に生きて、普通に歳を取って、普通に死ねる」
リーリエの目が潤んだ。
「それは——解放なのね」
「ああ。解放だ」
二人は手を繋いだ。炉の光の中で。
すべての準備が整った。あとは——始めるだけだ。




