合理的な悪
結界の向こうで、カインは歯を食いしばっていた。
透明な壁の先にリーリエの背中が見えている。大司教と対峙している小さな背中。銀灰色の髪が揺れている。声は——聞こえない。結界が音を遮断している。表情も、仕草も、曖昧にしか見えない。光の壁越しに見るリーリエの姿は、水底に沈む影のように儚く揺れていた。
拳が結界に触れている。冷たい。氷のように冷たい壁。指先が白くなるほど押し当てているのに、何も伝わらない。声も、温もりも、何一つ。
五百年前と同じだ。
炉の扉が閉まり、向こう側に聖女がいて、カインは外から見ていることしかできない。あの日と——同じ構図。壁の向こうで命が消えようとしているのに、手が届かない。
「——くそ」
低い呻きが漏れた。カインは結界に拳を打ちつけた。何も起こらなかった。跳ね返されただけだった。
だが——今回は違う。根本的に違う。リーリエが内側から開ける。約束した。
信じろ。あいつを信じろ。
カインは拳を下ろし、結界の向こうを見つめた。
リーリエが大司教と何を話しているかは——わからない。しかし大司教の論理がどういうものかは、カインが誰よりも知っている。五百年前、同じ論理を聞いた。
一人の犠牲で万人が救われる。
あの日、教会はそう言った。初代聖女が炉に入ることを「世界の救済」と呼んだ。カインが反対すれば「世界を滅ぼす気か」と詰められた。
反論できなかった。
一人の命と万人の命を天秤にかけたら、万人が重い。それは——論理的に正しい。感情では否定できても、論理では否定できない。だから初代聖女も反論しなかった。「しかたがない」と微笑んで、炉に向かった。あの翠色の瞳に涙を湛えながら、それでも微笑んで。
カインは五百年間、あの論理への反論を探し続けた。古文書を読み、賢者を訪ね、一人で考え続けた。眠れない夜に天井を見上げ、放浪の道すがら空を仰ぎ、答えのない問いに何度も何度も向き合った。
「一人の犠牲で万人が救われる」。その言葉が、五百年間カインの脳裏に焼きついていた。教会の高位聖職者が、あの日、穏やかな笑みで言った言葉。カインがどれだけ叫んでも、その笑みは崩れなかった。
そして——見つけられなかった。
論理で大司教を倒すことは、カインにはできない。五百年かけても見つけられなかったのだ。
だが——リーリエは違う。
カインが五百年かけて辿り着けなかった場所に、あの少女は最初から立っている。「犠牲にされる側」に立っている。カインは「救えなかった側」であり、大司教は「犠牲にする側」だ。三者の中で——犠牲にされた当人だけが、見える景色がある。
信じる。
カインは拳を握った。五百年前は「守る」ことしかできなかった。剣を振り、盾を構え、身体を張ることでしか愛を表現できなかった。それがカインの——聖騎士としての唯一の方法だった。
今は違う。
今は——「信じる」ことができる。守ることより遥かに難しい、けれど遥かに大切なこと。相手の力を信じて、手を放すこと。
「旦那様」
背後からリュカの声がした。振り返ると、リュカが聖堂の回廊を駆けてきたところだった。息が上がっている。
「外の状況は」
「教会軍の残存勢力はほぼ投降っす。団長殿が降伏を受け入れてる。ただ——」
「ただ?」
「聖堂の外に人が集まり始めてます。民間人っす。近隣の街から来たらしい。数百人はいるかと」
「民間人が? なぜ」
「わかんないっす。でも——何か叫んでるみたいで。よく聞こえなかったんすけど」
カインは眉をひそめた。戦場に民間人が押し寄せるのは危険だ。しかし——なぜ、人々がここに来る? 聖女制度の真実を知った人々が、何かを求めてここに?
結界の向こうのリーリエに意識を集中しなければならない。今は他のことに気を取られている場合ではない。けれど胸の奥で——微かな予感が揺れていた。民衆の声が、何か大きな流れの始まりであるという予感。
「団長に任せろ。民間人の保護は騎士の仕事だ」
「了解っす」
リュカが踵を返しかけて——立ち止まった。
「旦那様」
「何だ」
「お嬢は——大丈夫っすよ」
カインはリュカを見た。
「五十年仕えてきた俺が言うんだから間違いないっす。旦那様は心配性すぎるんすよ。お嬢は強い。——旦那様より、たぶん」
その言葉に、カインは何も言い返せなかった。リュカの言う通りだ。崖から落ちてきた日の、あの虚ろな目をした少女。「助けなくてよかったのに」と言った少女。あの少女が——今、大司教の論理に一人で立ち向かっている。
軽い口調。だが目は笑っていなかった。リュカなりの本気の言葉だった。
「……わかっている」
「ほんとに?」
「わかっている」
繰り返した。今度は——少しだけ、力が込もっていた。
リュカが去った後、カインは再び結界に向き直った。
リーリエの背中が見えている。まだ立っている。倒れていない。声は聞こえないが——肩は震えていない。銀灰色の髪が背中に流れ、炉から漏れる光を受けて淡く輝いている。小さな背中。けれど——まっすぐな背中。
あの少女は強い。
崖から落ちてきた日には想像もできなかったほどに——カインよりも、強い。
五百年生きても見つけられなかった答えを、あの少女が見つけるかもしれない。いや——見つける。
カインは結界に手を当てた。触れた指先に冷たい抵抗を感じた。けれど——手を離さなかった。この壁の向こうにリーリエがいる。手は届かない。声も届かない。けれど——この手を当てていれば、せめて想いだけは。
待っている。
信じて、待っている。
それが——五百年を生きたカインが、ようやくたどり着いた答えだった。守ることでも、戦うことでもなく。信じること。リーリエの強さを信じて——待つこと。
五百年の間に身につけた多くの能力——剣技も、魔力も、古代知識も——そのどれよりも難しいことだった。何もしないで待つこと。相手を信じて、自分の無力さを受け入れること。しかしそれこそが——カインがリーリエから学んだ最も大切なことだった。
聖堂の回廊に、静寂が満ちていた。結界の冷たい光が壁面の聖画を照らし、歴代聖女たちの微笑みが揺れている。あの微笑みの裏にある苦痛を、カインは五百年かけて知った。
結界の向こうで、リーリエが一歩前に出た気配がした。
小さな背中が、微かに——しかし確かに、前へ動いた。大司教に向かって。その一歩に迷いはなかった。カインの胸の奥で、何かが震えた。
何かが——動き始めていた。リーリエの中で。言葉が——形になろうとしていた。




