功利主義の弁
結界の前で、カインが全力を解放した。
深紅の瞳に金色の光が混じり、身体から膨大な魔力が噴き出した。五百年分の力の一部——聖なる炉の余波を宿した、超常の力。
「行け。三秒だ」
カインの拳が結界に叩き込まれた。衝撃波が回廊を震わせた。結界に亀裂が走った——ほんの一瞬、人一人が通れるだけの裂け目が。
リーリエは駆けた。
裂け目を潜り抜けた。身体が結界の内側に吸い込まれるように通過した。紋章が激しく脈打ち、炉の力が全身を舐めるように這い回った。
そして——結界が閉じた。
振り返ると、結界の向こうにカインの姿が見えた。深紅の瞳が——恐怖に揺れていた。また扉が閉じた。五百年前と同じように。
「すぐ開ける」
リーリエは結界越しに声を上げた。
「——頼む」
カインの声は小さかった。震えていた。
リーリエは前を向いた。
結界の内側——聖堂の最深部。薄暗い広間が広がっていた。天井は高く、壁面には古い壁画が描かれている。歴代の聖女が炉に命を捧げる場面。美しい色彩で描かれた、残酷な絵。
その広間の奥に——人影が立っていた。
白金の法衣。灰色の髪を後ろに撫でつけた痩身の老人。胸に大司教の紋章。
グレゴリウス・ヴァン・オルデン。
「来たか、聖女よ」
その声は穏やかだった。怒りも焦りもない。まるで客人を迎えるような声。灰色の瞳がリーリエを見ていた。冷静で、感情を読ませない目。
リーリエは立ち止まった。大司教との間に、十歩ほどの距離があった。
広間の空気は冷たく、澄んでいた。古い石の匂い。微かな香の残り香。そして——炉から漏れ出す力の気配が、肌をちりちりと刺す。壁画の聖女たちが、二人を見下ろしていた。穏やかな微笑みの裏にある苦痛を、リーリエだけが知っている。
「大司教様」
「グレゴリウスで結構です」
大司教が微かに笑った。慈愛に満ちた笑み——信徒の前で見せるそれと同じ。しかし目は笑っていなかった。
リーリエと同じだ。
かつてのリーリエも、目が笑わない笑みを浮かべていた。感情を凍結させた笑み。この老人もまた——何かを凍結させているのだ。犠牲にした聖女たちの顔を忘れるために。自分の決断に疑問を抱かないために。
「外は随分と騒がしいようですね」
大司教が背後の壁画を見上げた。
「聖騎士団長が離反した。魔王——いや、初代聖騎士が正体を明かした。教会軍は半壊。……お見事です。ここまで追い詰められたのは、三十年の大司教生活で初めてですよ」
「追い詰めに来たわけじゃありません」
リーリエが言った。
「道を開けてほしいだけです。聖なる炉への道を」
「道を開けて、どうするのです」
「炉を変えます。一点集中型から分散型に。もう一人の命を燃やす必要のない形に」
「第三の道」
大司教が呟いた。その声に——侮蔑はなかった。ただ、冷徹な分析があった。
「不確実な祈りに世界を賭ける、というわけですか」
大司教の声に——冷たい鋼のような響きがあった。三十年間この座に就いてきた男の、自信に満ちた声。
「不確実ではありません。万人の祈りが炉を灯す——それは初代聖女が遺した設計です」
「設計は理論です。実証はない」
大司教がリーリエに向き直った。灰色の瞳の温度が、さらに下がった。
「聖女よ。一つ聞きましょう」
大司教が一歩前に出た。灰色の瞳が鋭くなった。
「——あなたは、失敗したときの責任を取れますか」
リーリエの心臓が跳ねた。
「失敗すれば世界が滅ぶ。結界が崩壊し、災厄が人の世に押し寄せる。何万、何十万の命が失われる。——あなたは、その責任を取れますか」
声は穏やかだった。しかしその穏やかさは——刃だった。論理の刃。
「私は世界を守るためにこの道を選びました。一人の犠牲で万人が救われる。確実な方法です。三十年間、この方法で世界は維持されてきた。失敗はない。なぜなら、燃料がある限り炉は燃えるからです」
大司教の論理は——隙がなかった。
「しかしあなたは、その『確実』を捨てて『不確実』に賭けようとしている。感情で。祈りで。——お前たちは、感情で世界を賭けているだけだ」
最後の一文で、大司教の声から敬語が消えた。一瞬だけ——素の感情が漏れた。怒りではなかった。恐怖だった。世界が滅ぶことへの、純粋な恐怖。
リーリエは——揺れた。
大司教の言葉には説得力があった。確実な方法がある。その方法で三十年間世界は守られてきた。不確実な祈りに賭けることの責任——リーリエに、それを背負えるのか。
失敗したら?
世界が滅んだら?
何万もの命が失われたら——それはリーリエの責任になる。
紋章が脈打った。炉の力が身体を這った。聖なる炉は聖女を求めている。燃料として。それが「確実な方法」だ。自分が命を差し出せば、世界は確実に守られる。
——駄目。
リーリエは拳を握った。
あの思考に引きずり込まれてはいけない。「自分が犠牲になればいい」——それは、かつての死にたがりの自分の思考だ。
でも——大司教の論理を、どう崩す?
感情的な反論では崩せない。「犠牲は嫌だ」では届かない。大司教の論理には論理で——いや。
論理ではない。
論理の「穴」がある。大司教の論理の中に。まだ言葉にならない。しかし——ある。
結界の向こうで、カインが拳を握っている気配を感じた。
大丈夫。まだ負けていない。
言葉を見つける。必ず。
背筋を伸ばした。震えそうになる膝に力を込めた。大丈夫。答えはある。まだ言葉にならないだけで——きっと、ある。
「……少し、考えさせてください」
「時間はあります」
大司教が穏やかに言った。
「炉が聖女を待っている限り——時間はいくらでも」
その言葉の裏にある意味を、リーリエは理解した。
炉は聖女を待っている。聖女が自ら炉に身を投じることを。大司教にとって、リーリエが悩むことすら「想定内」なのだ。最終的に聖女は炉に入る。それが「確実な方法」だから。
けれどリーリエは——燃料として入るのではない。
言葉を見つける。大司教の論理の穴を射抜く、たった一つの問いを。
紋章が、静かに脈打っていた。炉の力がリーリエの身体を這い、思考を鈍らせようとする。燃料として呑み込もうとする。その誘惑を振り払い、リーリエは意識を研ぎ澄ませた。
かつての自分なら——この誘惑に身を委ねていた。燃料として消えることを、受け入れていた。けれど今は違う。今のリーリエには、帰る場所がある。帰りたいと思える場所が。




