↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

308/350

功利主義の弁

 結界の前で、カインが全力を解放した。


 深紅の瞳に金色の光が混じり、身体から膨大な魔力が噴き出した。五百年分の力の一部——聖なる炉の余波を宿した、超常の力。


「行け。三秒だ」


 カインの拳が結界に叩き込まれた。衝撃波が回廊を震わせた。結界に亀裂が走った——ほんの一瞬、人一人が通れるだけの裂け目が。


 リーリエは駆けた。


 裂け目を潜り抜けた。身体が結界の内側に吸い込まれるように通過した。紋章が激しく脈打ち、炉の力が全身を舐めるように這い回った。


 そして——結界が閉じた。


 振り返ると、結界の向こうにカインの姿が見えた。深紅の瞳が——恐怖に揺れていた。また扉が閉じた。五百年前と同じように。


「すぐ開ける」


 リーリエは結界越しに声を上げた。


「——頼む」


 カインの声は小さかった。震えていた。


 リーリエは前を向いた。


 結界の内側——聖堂の最深部。薄暗い広間が広がっていた。天井は高く、壁面には古い壁画が描かれている。歴代の聖女が炉に命を捧げる場面。美しい色彩で描かれた、残酷な絵。


 その広間の奥に——人影が立っていた。


 白金の法衣。灰色の髪を後ろに撫でつけた痩身の老人。胸に大司教の紋章。


 グレゴリウス・ヴァン・オルデン。


「来たか、聖女よ」


 その声は穏やかだった。怒りも焦りもない。まるで客人を迎えるような声。灰色の瞳がリーリエを見ていた。冷静で、感情を読ませない目。


 リーリエは立ち止まった。大司教との間に、十歩ほどの距離があった。


 広間の空気は冷たく、澄んでいた。古い石の匂い。微かな香の残り香。そして——炉から漏れ出す力の気配が、肌をちりちりと刺す。壁画の聖女たちが、二人を見下ろしていた。穏やかな微笑みの裏にある苦痛を、リーリエだけが知っている。


「大司教様」


「グレゴリウスで結構です」


 大司教が微かに笑った。慈愛に満ちた笑み——信徒の前で見せるそれと同じ。しかし目は笑っていなかった。


 リーリエと同じだ。


 かつてのリーリエも、目が笑わない笑みを浮かべていた。感情を凍結させた笑み。この老人もまた——何かを凍結させているのだ。犠牲にした聖女たちの顔を忘れるために。自分の決断に疑問を抱かないために。


「外は随分と騒がしいようですね」


 大司教が背後の壁画を見上げた。


「聖騎士団長が離反した。魔王——いや、初代聖騎士が正体を明かした。教会軍は半壊。……お見事です。ここまで追い詰められたのは、三十年の大司教生活で初めてですよ」


「追い詰めに来たわけじゃありません」


 リーリエが言った。


「道を開けてほしいだけです。聖なる炉への道を」


「道を開けて、どうするのです」


「炉を変えます。一点集中型から分散型に。もう一人の命を燃やす必要のない形に」


「第三の道」


 大司教が呟いた。その声に——侮蔑はなかった。ただ、冷徹な分析があった。


「不確実な祈りに世界を賭ける、というわけですか」


 大司教の声に——冷たい鋼のような響きがあった。三十年間この座に就いてきた男の、自信に満ちた声。


「不確実ではありません。万人の祈りが炉を灯す——それは初代聖女が遺した設計です」


「設計は理論です。実証はない」


 大司教がリーリエに向き直った。灰色の瞳の温度が、さらに下がった。


「聖女よ。一つ聞きましょう」


 大司教が一歩前に出た。灰色の瞳が鋭くなった。


「——あなたは、失敗したときの責任を取れますか」


 リーリエの心臓が跳ねた。


「失敗すれば世界が滅ぶ。結界が崩壊し、災厄が人の世に押し寄せる。何万、何十万の命が失われる。——あなたは、その責任を取れますか」


 声は穏やかだった。しかしその穏やかさは——刃だった。論理の刃。


「私は世界を守るためにこの道を選びました。一人の犠牲で万人が救われる。確実な方法です。三十年間、この方法で世界は維持されてきた。失敗はない。なぜなら、燃料がある限り炉は燃えるからです」


 大司教の論理は——隙がなかった。


「しかしあなたは、その『確実』を捨てて『不確実』に賭けようとしている。感情で。祈りで。——お前たちは、感情で世界を賭けているだけだ」


 最後の一文で、大司教の声から敬語が消えた。一瞬だけ——素の感情が漏れた。怒りではなかった。恐怖だった。世界が滅ぶことへの、純粋な恐怖。


 リーリエは——揺れた。


 大司教の言葉には説得力があった。確実な方法がある。その方法で三十年間世界は守られてきた。不確実な祈りに賭けることの責任——リーリエに、それを背負えるのか。


 失敗したら?


 世界が滅んだら?


 何万もの命が失われたら——それはリーリエの責任になる。


 紋章が脈打った。炉の力が身体を這った。聖なる炉は聖女を求めている。燃料として。それが「確実な方法」だ。自分が命を差し出せば、世界は確実に守られる。


 ——駄目。


 リーリエは拳を握った。


 あの思考に引きずり込まれてはいけない。「自分が犠牲になればいい」——それは、かつての死にたがりの自分の思考だ。


 でも——大司教の論理を、どう崩す?


 感情的な反論では崩せない。「犠牲は嫌だ」では届かない。大司教の論理には論理で——いや。


 論理ではない。


 論理の「穴」がある。大司教の論理の中に。まだ言葉にならない。しかし——ある。


 結界の向こうで、カインが拳を握っている気配を感じた。


 大丈夫。まだ負けていない。


 言葉を見つける。必ず。


 背筋を伸ばした。震えそうになる膝に力を込めた。大丈夫。答えはある。まだ言葉にならないだけで——きっと、ある。


「……少し、考えさせてください」


「時間はあります」


 大司教が穏やかに言った。


「炉が聖女を待っている限り——時間はいくらでも」


 その言葉の裏にある意味を、リーリエは理解した。


 炉は聖女を待っている。聖女が自ら炉に身を投じることを。大司教にとって、リーリエが悩むことすら「想定内」なのだ。最終的に聖女は炉に入る。それが「確実な方法」だから。


 けれどリーリエは——燃料として入るのではない。


 言葉を見つける。大司教の論理の穴を射抜く、たった一つの問いを。


 紋章が、静かに脈打っていた。炉の力がリーリエの身体を這い、思考を鈍らせようとする。燃料として呑み込もうとする。その誘惑を振り払い、リーリエは意識を研ぎ澄ませた。


 かつての自分なら——この誘惑に身を委ねていた。燃料として消えることを、受け入れていた。けれど今は違う。今のリーリエには、帰る場所がある。帰りたいと思える場所が。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。