大司教の砦
作戦会議は、結界の手前——聖堂の大広間で行われた。
天井の高い広間に、松明の光が揺れていた。壁面の聖画が炎に照らされ、歴代聖女たちの微笑みが揺れるように見えた。空気は冷たく、石壁からしみ出す冷気が肌を刺す。
カインが石柱に背を預け、腕を組んでいた。深紅の瞳が石柱の向こうの闇を見つめている。五百年前の記憶と現在の状況を重ね合わせるように。その向かいにレオンハルトが立ち、壁に掛けられた聖堂の古い見取り図を睨んでいる。リーリエは二人の間の長椅子に腰を下ろし、膝の上で紋章が脈打つのを感じていた。どくん、どくん。炉が呼んでいる。ここまで来て、なお。
「現状を整理する」
沈黙を破るように、カインが口を開いた。
「教会軍の前線は突破した。聖堂内部の警備も排除できる。問題は、聖なる炉を盾にした結界だ。あれが最深部への通路を塞いでいる」
「力ずくの突破は不可能か」
レオンハルトが聞いた。
「炉の力そのものを盾にしている。力ずくで破壊すれば炉が損傷し、世界を守っている結界が崩壊する。やるわけにはいかない」
「では、どうする」
重い沈黙が降りた。
カインの深紅の瞳が、炉へ続く通路の方角を見つめていた。その目に——五百年前の記憶が甦っているのがわかった。あの日、炉の扉の前で止められた記憶。閉じた扉。届かなかった手。
「俺一人なら——突破できるかもしれない」
カインが言った。低い声だった。
「炉の余波を受けたこの身体は、結界に対する耐性がある。全力を注げば、一瞬だけ穴を開けられる可能性はある。だが——」
「たどり着いたところで、カインには炉を変えられない」
レオンハルトが核心を突いた。
「そうだ。炉の構造を書き換えられるのは、炉と紋章で繋がった聖女だけだ。俺が突破しても、リーリエが中にいなければ意味がない」
「なら——」
「鍵は聖女殿だ」
レオンハルトが真っ直ぐにリーリエを見た。
リーリエは顔を上げた。二人の視線が自分に集まっている。
わかっていた。
紋章が炉と共鳴している。結界は聖女を弾かない——聖女を招く。リーリエなら、結界を通り抜けられる。内側に入り、大司教と対峙し、炉の盾を解除できる可能性がある。
「炉は私に応えている」
リーリエが言った。声は静かだった。
「紋章が共鳴しているの。炉は聖女を弾かない——招き入れる。私が先に入れば、内側から盾を解除できるかもしれない」
「駄目だ」
カインの声が鋭く響いた。
即答だった。考える間もなく。身体が拒否しているような反射。
「お前を一人で行かせるわけにはいかない。結界の向こうには大司教がいる。お前に何かあったら——」
「カイン」
リーリエは立ち上がった。カインの前に立った。見上げた。
薄い青紫の瞳が、深紅の瞳をまっすぐに捉えた。
「私の選択を、奪わないで」
カインが——息を呑んだ。
大広間の空気が張りつめた。松明の炎が風もないのに揺れた。
「私は燃料として炉に行くんじゃない。炉を変えるために行く。自分の足で、自分の意志で。——あなたが五百年前にできなかったこと、私がやる。だからお願い。信じて」
静かな声だった。けれど——揺るぎなかった。教会で学んだ発声法ではなく、リーリエ自身の声。魔王城で少しずつ取り戻してきた、自分の声。カインに出会わなければ永遠に失われていたかもしれない、生きている人間の声。
沈黙が降りた。
カインの拳が——握られていた。指の関節が白くなるほど強く。唇が引き結ばれ、深紅の瞳が揺れていた。
五百年前、カインは初代聖女を止めようとした。手を掴んだ。行くなと叫んだ。けれど止められなかった。そして今——また、聖女が炉に向かおうとしている。止めたい。止めたいに決まっている。胸の奥で五百年前のカインが叫んでいる。行かせるな、と。あの日と同じだ、と。
だが。
リーリエは初代聖女とは違う。
初代聖女は「時間がなかった」。選択の余地がなかった。けれどリーリエは——「選んでいる」。自分の意志で。生きるために。死にたがりだった少女が、生きるために、自ら炉に向かおうとしている。
その違いを——カインは理解した。
カインの拳が——ゆっくりと、開いた。一本ずつ。指が。まるで五百年間握りしめていた何かを、手放すように。
「……わかった」
その一言に、どれだけの葛藤が詰まっていたか。五百年の後悔と恐怖を押し殺して、リーリエの意志を尊重する——「守る者」から「信じる者」への、静かな転換。
リーリエは微笑んだ。目尻が下がる、温かい笑み。この笑みを見るたびに、カインの中の何かが軋む。守りたい。けれど——信じると決めた。
「ありがとう」
「礼を言うな。——ただし条件がある」
カインの声が少し柔らかくなった。拳を開いたばかりの指が、まだ微かに震えている。それを隠すように腕を組み直した。
「条件?」
「俺が結界に穴を開ける。お前が中に入ったら、すぐに内側から盾を解除しろ。そうすれば俺も入れる。——一人にはしない。すぐに追いつく」
リーリエは頷いた。
「約束する。すぐに開けるわ」
「頼んだ。——団長」
カインがレオンハルトに向き直った。
「俺とリーリエが最深部に向かう間、聖堂の防衛を頼む。残存勢力が背後を突いてくる可能性がある」
「任せろ。——聖女殿」
レオンハルトが敬礼した。
「ご武運を」
「ありがとう、レオンハルト」
リーリエは微笑んで答えた。レオンハルトの琥珀色の目に、微かな潤みが見えた。この男も——自分の方法で、聖女を守ろうとしてくれている。剣で。信念で。かつて敵だった男が、今は最も信頼できる味方の一人になっている。
そしてカインを見上げた。
カインがリーリエを見つめていた。心配と信頼が入り混じった、複雑な眼差し。深紅の瞳の奥に、幾つもの感情が渦巻いている。恐怖。不安。けれどその最も深い場所には——確かな決意があった。信じると決めた。この少女の強さを。
「行こう」
リーリエが言った。声は穏やかだった。けれど——覚悟が宿っていた。
「ああ。——行くぞ」
カインの返事は短かった。いつも通りの、ぶっきらぼうな返事。けれどその声に——温もりがあった。
二人は並んで、結界に向かって歩き出した。松明の光が二人の長い影を壁に映している。聖画の中の歴代聖女たちが、二人を見送っているようだった。
紋章が脈打った。炉の鼓動が、一段と強くなった。近づいている。世界を変える場所に。リーリエの足が、一歩ごとに重くなる。けれど——止まらない。
その先に——大司教が待っている。




