炉の盾
ついに——教会軍の前線は崩壊した。
カインの名乗りとレオンハルトの宣言。その二つが教会軍の士気を根底から揺さぶり、残存勢力の半数以上が武器を下ろした。聖堂の門前に残った兵は三百ほど。それでも門を開かぬ者たち——大司教の直属の精鋭だった。
カインとレオンハルトが連携して前線を突破した。
カインの剣が閃くたびに、教会の精鋭が吹き飛ばされた。殺さない。峰打ちと魔力の衝撃波で意識を刈り取るだけだ。五百年の修練で研ぎ澄まされた剣技が、必要最低限の力で相手を無力化していく。甲冑が砕ける音。石畳に倒れる音。けれど血の匂いはしない。約束を守っている。
レオンハルトが側面から指揮を取り、良心派の騎士たちが散発的な抵抗を封じていく。かつての仲間に剣を向ける苦さは、レオンハルトの表情に刻まれていた。けれど手は止めなかった。
重い軋みを上げて——門が開いた。
リーリエはカインの背を追い、聖堂の内部へ踏み込んだ。
薄暗い回廊。高い天井にステンドグラスの光が斑に落ちている。空気が重い。香の残り香と、古い石の匂いと、どこか焦げたような炉の気配が混じっている。足音が石の壁に反響し、自分たちの息遣いが何倍にも増幅されて返ってくる。
色褪せた聖画が壁に並び、歴代の聖女の姿が描かれていた。穏やかな微笑みを浮かべた少女たち。画の中では幸福そうに見える。金箔と鮮やかな顔料で飾られた聖画。けれどリーリエには——その微笑みの裏にある苦痛がわかる。彼女たちの目が、画の中からリーリエに語りかけている。
聖堂の最深部を目指して走った。
そして——壁にぶつかった。
目に見えない壁。
カインが先頭を走っていた足を止めた。空間の何もない場所で、まるで透明な岩壁に衝突したかのように弾き返された。
「——っ」
カインの身体が後方に吹き飛び、石畳の上を数メートル滑った。すぐに立ち上がるが、その顔に苛立ちが浮かんでいた。
「結界だ。炉の力で張られている」
レオンハルトが手を伸ばした。指先が見えない壁に触れた瞬間——白い火花が散り、レオンハルトの手が弾かれた。
「確かに。人間の力では突破できない」
「俺の力でもか」
カインの声に苛立ちが混じった。五百年分の力を持ちながら、この壁を超えられない。
カインが再び結界に向かった。右手に魔力を集中させ、全力の一撃を叩き込んだ。衝撃波が回廊を震わせ、ステンドグラスが軋んだ。
結界は——微動だにしなかった。カインの拳が弾かれ、衝撃が腕を伝って全身を揺さぶった。
「聖なる炉の力そのものが盾になっている」
カインの声に焦りが混じった。
「力ずくでこれを破れば、炉自体が壊れかねない。炉が壊れれば結界が崩壊し——」
「世界が終わる」
リーリエが静かに言った。
炉の力を盾にしている。つまり、この結界を無理に壊すことは世界の結界を壊すことに等しい。大司教はそれを知っている。だからこそ——最強の盾なのだ。世界を人質にした防壁。
「くそ……」
カインが拳を握った。
その時——リーリエの左胸が、熱くなった。
紋章が光っていた。
銀白色の淡い光が服の上からでも見えるほど強く輝いている。脈打っている。炉の脈動と同期して。どくん。どくん。どくん。心臓よりも深い場所で、何かが共鳴している。
「炉が——私を呼んでいる」
リーリエが呟いた。声が微かに震えていた。紋章の光が服の布地を透かし、白銀の模様がリーリエの胸の上で明滅している。まるで生き物のように脈打つそれは、聖女と炉の間に張られた見えない鎖だった。
結界の向こうから、炉の光が誘うように揺れていた。聖女を招いている。「燃料」を求めて。紋章が炉と繋がっている以上、聖女は炉にとって「仲間」なのだ。結界は聖女を弾かない——むしろ、招き入れる。
なぜなら、聖女は燃料だから。
その仕組みの残酷さに、リーリエは胸が痛んだ。聖女を「守る」ための防御機構ではなかった。聖女を「手放さない」ための檻だった。外敵から聖女を守るのは、聖女を炉に繋ぎ止めるため。壊されてはいけない「燃料」を保護するための仕組み。
「リーリエ」
カインがリーリエの腕を掴んだ。
強い力だった。五百年前——初代聖女の手を掴んだときと同じ力。あの日もカインは手を伸ばした。エルシェの腕を掴もうとした。けれど——届かなかった。
「行かせるか」
その声は低く、鋭かった。恐怖が滲んでいた。声の奥底で、五百年前の叫びが木霊しているようだった。リーリエが炉に向かうことへの——五百年分の恐怖。あの日と同じだ。炉が聖女を呼び、聖女が炉に向かい——扉が閉まる。
「大丈夫」
リーリエは微笑んだ。カインを見上げて。穏やかな笑みだった。目が笑っている——本当に笑っている笑み。かつての虚ろな微笑みとは全く違う。
「まだ行かない。大丈夫よ、カイン」
穏やかな声だった。けれど確かだった。
カインの手が——震えていた。リーリエの腕を掴んだ手が。あの日の記憶が蘇っているのだろう。炉に向かう聖女。止められなかった扉。間に合わなかった手。
リーリエは掴まれた腕を動かさず、もう一方の手でカインの手を包んだ。震える手を、温めるように。
「私はあなたの隣にいる。まだどこにも行かない」
カインの呼吸が——落ち着いた。震えが止まった。深紅の瞳が、リーリエの瞳を見つめた。
「……すまん」
「謝らないで。怖いのは——あなたも同じでしょう」
カインが口を引き結んだ。否定しなかった。
レオンハルトが二人に歩み寄った。
「炉の盾を突破する方法を考えなければ。力ずくは無理だ。別の手立てが要る」
「ええ」
リーリエは頷いた。
紋章がまだ脈打っている。炉が呼んでいる。「燃料」を求めて。
けれどリーリエは——燃料として呼ばれるのではない。炉を変えるために行く。
方法は——ある。紋章が炉と共鳴しているということは、リーリエなら結界の内側に入れるということ。
ただし、それは——大司教と直接対峙することを意味していた。
結界の向こう。聖堂の最深部。あの老人が——待っている。灰色の瞳を光らせ、功利主義の論理を研ぎ澄ませて。三十年間聖女制度を守り続けてきた男が。
リーリエの紋章が、また一つ脈打った。炉の鼓動が足元から響いてくる。深く、重く、この聖堂全体が一つの心臓であるかのように。
カインの手がまだリーリエの腕を掴んでいた。リーリエはその手をそっと外し、代わりに——自分の手でカインの手を握った。
「信じて」
短い言葉。けれどカインの目に、何かが灯った。恐怖を超えた場所にある、静かな光。
「……ああ」




