裏切り者と呼ばれて
教会軍が——二つに割れた。
まるで大地に亀裂が走るように、整然としていた隊列が二つの塊に分かれていく。金属が擦れ合う音。足が踏み鳴らす音。怒号と嗚咽が入り混じる、戦場とも葬列ともつかない音。
リーリエはその光景を、胸を締めつけられる想いで見つめていた。
良心派の離脱は、レオンハルトの宣言から半刻も経たないうちに百を超えた。盾を置く者。槍を地面に突き立てる者。兜を脱ぎ、かつての団長の傍に歩み寄る者。教会軍の前線に大きな穴が空いた。
しかし——残った者たちもいた。
「裏切り者!」
その声は悲鳴に近かった。教会軍の右翼を守る一団が、離反した仲間に向かって叫んでいた。声の主は壮年の騎士だった。白髭が甲冑の頬当てからはみ出している。
「聖騎士の誓いを忘れたか! 教会に仕え、世界を守る——それが俺たちの務めだろう!」
離反した若い騎士が、その声に足を止めた。振り返り、苦い顔をした。
「副長……俺は——」
「黙れ。お前は裏切り者だ。聖女に唆されたか。魔王に操られたか。どちらにせよ——教会を捨てた者に、聖騎士を名乗る資格はない」
白髭の副長の声は——震えていた。怒りだけではない。裏切られたという悲しみが、声の端に滲んでいた。
リーリエは、その副長の顔を見つめた。
悪人の顔ではなかった。
世界を守りたい。教会の正義を信じている。仲間を信じていた。その仲間が去ったことが——耐えられないだけだ。声の震えが、それを物語っている。怒りの奥にある悲しみを、リーリエの目は見逃さなかった。
敵にも、人がいる。
かつて感情を凍結させていた頃のリーリエなら、気づかなかったかもしれない。世界から切り離されていた自分には、他者の痛みを感じ取る余裕がなかった。今は——見える。痛みの形が。
リーリエの視界に、もう一人——教会軍の中に、涙を浮かべた若い兵士が映った。
二十歳にもならないだろう。痩せた身体に不釣り合いな大きな盾を抱え、前線で震えている少年だった。離反した仲間を見送りもせず、残った側で盾を構え続けている。その目から涙がこぼれ落ちていた。
なぜ残ったのだろう。
リーリエには——わかる気がした。教会に育てられた者がいる。教会の孤児院で食事を与えられ、文字を教えられ、剣を持つことを許された者が。教会がすべてだった者が。教会の白い壁が、あの子にとっての世界の輪郭だったのだ。
あの少年にとって、教会は故郷なのだ。故郷を捨てることは——たとえそこに罪があっても、容易ではない。
リーリエ自身が、そうだったから。
教会に命を差し出すことが「当然」だと思っていた。疑うことすら許されなかった。疑う力さえ、残っていなかった。カインに拾われなければ——リーリエも、あの少年と同じ側に立っていただろう。
「リーリエ」
カインの声がした。低く、しかし穏やかな声。
「全員を救うことはできない」
カインの言葉は——残酷だった。けれど嘘がなかった。
「だが、殺さないことはできる」
リーリエはカインを見上げた。深紅の瞳は真剣だった。
「この戦いは殲滅じゃない。道を開ける戦いだ。炉にたどり着ければいい。相手を滅ぼす必要はない」
「……あなたらしい」
リーリエは微笑んだ。
不器用な優しさ。「全員を救えない」と認めたうえで「殺さない」と言える。五百年の間に——きっと多くのものを見て、多くを失って、それでもなお残った優しさ。この人が「魔王」と呼ばれていることが、どれほど理不尽か。世界で最も優しい男が、世界で最も恐ろしい名を着せられている。
「殺さないなんて甘いことを——」
「甘くない」
カインが遮った。
「殺せば、あとに残るのは憎しみだ。五百年前、教会は俺を『魔王』にすることで問題を封じた。殺して封じることの先にあるのは——同じ繰り返しだ。俺は五百年分、その馬鹿馬鹿しさを知っている」
その声に、重みがあった。五百年という歳月でしか得られない、痛みに裏打ちされた知恵の重み。カインが放浪の中で幾度も見てきたものだろう——戦争の後に残る焦土と、憎しみの連鎖と、繰り返される悲劇。
レオンハルトが横で頷いた。
「同感だ。あいつらの中には——俺の部下だった者もいる。殺したくない。降伏させたい」
「なら、方針は一つだ」
カインが聖堂を見据えた。
「頭を抑える。大司教の命令で動いている以上、大司教を止めれば教会軍は瓦解する。正面からの殲滅ではなく、最深部への突破——大司教への直接対峙だ」
リーリエは頷いた。
教会軍の向こうで、あの若い兵士がまだ泣いていた。盾を構え、涙を流し、それでも立っていた。
あの子を殺さないで済む方法がある。ならば——それを選ぶ。
「カイン」
「ん」
教会軍の向こうで、あの若い兵士がまだ泣いていた。盾を構え、涙を流し、それでも立っていた。リーリエの胸が——静かに痛んだ。
「あの子たちにも——いつか、わかってもらえるかな」
「わからん」
素っ気ない答え。けれどカインは——少しだけ間を置いて、付け加えた。その「間」に、五百年分の経験が沈んでいた。
「だが、生きていれば——わかる時が来るかもしれん。死んだら、それもない」
リーリエはその言葉を胸の中で反芻した。カイン自身がそうだった。五百年間、教会を恨み続けた。けれどレオンハルトの宣言を聞いて——教会の中にも正義があったと知った。生きていたから、知ることができた。
リーリエは目を閉じた。カインの言葉が、胸の奥に沁みていく。
そうだ。生きていれば、変われる。自分がそうだったように。死にたがっていた自分が、今こうして「生きたい」と願えているように。
教会軍の分裂は続いていた。良心派はレオンハルトの元に集まり、残存勢力は聖堂の門前に後退して防衛線を再構築している。混乱の中——大司教の姿は見えない。聖堂の最深部で、あの老人は待っているのだろう。すべてを見通した灰色の瞳で。功利主義の論理を研ぎ澄ませて。
「次だ」
カインが呟いた。深紅の瞳に覚悟を灯し、外套の裾を翻し、前線に向かって歩き出す。
「次は——俺が、仮面を脱ぐ」
リーリエはその背中を見つめた。広い肩。黒い外套。五百年の孤独を背負ってきた背中。けれど今、その背中は——かつてないほど真っ直ぐだった。
五百年間纏い続けた「魔王」の名を、カインが——捨てようとしている。本来の名前を取り戻そうとしている。初代聖騎士カイン・ヴェルトールの名を。
紋章が脈打った。炉が応えるように。五百年前、初代聖騎士が追放された日から、この炉はずっと待っていたのかもしれない。本当の名で呼ばれる日を。




