聖騎士の誓い
聖騎士団長レオンハルトが、隊列の前に歩み出た。
カインはその背中を見つめていた。白銀の甲冑——紋章が外されたそれは、もはや教会の騎士のものではない。しかし聖騎士としての矜持は、紋章の有無に依らなかった。背筋の伸びた立ち姿。揺るがない足取り。あの男は——紋章がなくとも騎士だ。
レオンハルトが教会軍の防衛線の前で立ち止まった。両軍の間の灰色の地帯。先ほどリーリエが立った場所よりも、さらに教会軍寄りに。かつての仲間たちの顔が見える距離に。
教会軍の兵士たちが、その姿を認めた。
動揺が走った。
レオンハルトは元聖騎士団長だ。この兵士たちの多くが、かつて彼の部下だった。彼の下で戦い、彼を敬い、彼の命令に従っていた者たちだ。
「聖騎士団の諸君」
レオンハルトの声が戦場に響いた。よく通る声だった。指揮官の声。戦場で何百もの命を預かってきた声。
教会軍の中に、ざわめきが広がった。波が岸壁に当たるように、動揺が前線から後方へ伝播していく。盾が揺れ、槍の穂先が震え、整然としていた隊列に亀裂が走る。
「……団長殿」
誰かが呟いた。震える声だった。信じたいのに信じていいのかわからない——そんな声。
「裏切り者だ。耳を貸すな」
指揮官が再び命じた。しかしその声は、先ほどよりも硬かった。レオンハルトの存在が——指揮官にも動揺を与えていた。
「裏切り者——か」
レオンハルトが呟いた。低い声。しかし否定はしなかった。
「そうだ。俺は教会を裏切った。お前たちの仲間であることを捨てた。その罪は認める」
教会軍が静まった。
「だが聞いてくれ。——俺が聖騎士になったのは、聖女を守るためだった」
風が吹いた。教会の旗がはためいた。
「お前たちもそうだろう。聖騎士の誓いを覚えているか。『聖女を守り、民を護り、正義を貫く』。俺たちはそう誓った。入団の日、右手を胸に当てて、誓いの言葉を唱えた。あの日の気持ちを——思い出してくれ。剣を取ったのは——人を守るためだ」
レオンハルトの琥珀色の目が、教会軍の一人ひとりを見つめた。
「だが俺は知ってしまった。聖女制度の真実を。聖女は——一人の少女が命を燃やして結界を維持するための人柱だ。俺たちが守っていたのは聖女じゃない。聖女を犠牲にする仕組みだ」
教会軍に衝撃が走った。真実を知る者、噂を聞いた者、初めて知った者——反応はさまざまだった。しかし誰の顔にも、何かが揺れていた。
「聖騎士が守るべきは教会ではない。——人だ」
その声は張り上げたものではなかった。静かで、しかし揺るがなかった。信念の重さが、声に乗っていた。風が止んだ。教会の旗さえ、揺れるのをやめたかのように。戦場に響くのはレオンハルトの声だけだった。
リーリエは見ていた。レオンハルトの背中が、どれほど真っ直ぐかを。教会の紋章を外した白銀の甲冑。信仰を捨てたのではない——信仰の形を、自分の手で選び直した男の背中。
「俺は聖女を守る。あの子を——一人の人間として、守る。それが聖騎士の誓いだと、俺は信じる」
沈黙が降りた。
長い、長い沈黙。
長い沈黙が、戦場を支配した。風の音だけが灰色の空の下を這っている。
そして——一人の兵士が、盾を下ろした。
若い兵士だった。レオンハルトの直属の部下だった男。目に涙を浮かべ、しかし背筋を伸ばしたまま、盾を地面に置いた。金属が石畳に触れる音が、戦場に響いた。
「……団長殿に従います」
二人目が盾を下ろした。三人目。四人目。
良心派の離脱が始まった。教会軍の前線が——揺らいだ。
カインはその光景を、少し離れた場所から見つめていた。
深紅の瞳に映る、聖騎士団長の背中。白銀の甲冑。まっすぐな背筋。揺るがない声。
——五百年前の自分に、似ていた。
あの日のカインもまた、教会に声を上げた。初代聖女を炉に送るなと。犠牲を許すなと。けれどあの日のカインは——一人だった。味方はいなかった。声は届かなかった。教会に追われ、追放され、「魔王」の汚名を着せられた。
今——レオンハルトは一人ではない。隣にリーリエがいる。背後に仲間がいる。だから声が届く。仲間が応える。
初代聖騎士の精神は——死んでいなかった。
五百年の時を超えて、別の男がその志を継いでいた。教会の中に、まだ正義があった。カインが追放されたあの日、教会と共に死んだと思っていたものが——息づいていた。レオンハルトという一人の騎士の中に。
カインの胸の奥で——何かが、ほどけた。
五百年分の結び目が、一つ——緩んだ。完全にほどけたわけではない。けれど今、この瞬間に、確かに一つ。あの日以来ずっと絞め続けていた縄の一本が。
ずっと抱えていた重荷の一端が、下ろされたような。五百年間、教会を恨み続けた。初代聖女を奪った教会を、歴代聖女を犠牲にし続けた教会を。けれど教会のすべてが悪ではなかった。あの組織の中にも——聖女を想う人間がいた。
「……カイン」
隣に、リーリエが来ていた。いつの間に。
リーリエは何も聞かなかった。何も言わなかった。ただ——カインの隣に立って、一緒にレオンハルトの背中を見つめていた。
その沈黙が、何よりも温かかった。
かつてリーリエは「守られる側」だった。カインが崖から拾い上げ、魔王城に連れ帰り、温かいスープを出し、柔らかい寝台で眠らせた。リーリエは受け取るだけだった。感謝さえできないほど心が凍っていた。
けれど今——カインの感情の揺れを察して、隣にいてくれる。守るのではなく、ただ寄り添う。言葉をかけるのではなく、ただそこにいる。それだけで——充分だった。人は時として、言葉よりも沈黙に救われることがある。
「あいつは——いい騎士だ」
カインが呟いた。声は低かった。感慨が滲んでいた。
「ええ。最高の騎士よ」
リーリエが答えた。その声には、敬意だけでなく——感謝が滲んでいた。レオンハルトがかつてリーリエを連れ戻しに来たとき、あの琥珀色の目に宿っていた迷いを覚えている。あの迷いが——今、ここに繋がった。
教会軍の前線が崩れ始めていた。良心派の離脱は止まらない。けれど残存勢力もまだ健在だった。教会を信じて立つ者たちが、歯を食いしばって陣形を維持している。
レオンハルトの宣言は大きな一石を投じた。しかし——まだ足りない。
カインは深く息を吸った。
五百年間、隠してきた名がある。「魔王」の仮面の下に封じてきた本当の名。
——次は俺の番だ。
左手の手袋の下で——初代聖女との契約の証が、微かに疼いた。まるでエルシェが応えるように。「行って」と背中を押すように。
カインの深紅の瞳に、決意の光が灯った。




