↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

302/350

宣戦

 翌朝。


 味方勢力が灰の聖堂の正面に隊列を組んだ。


 朝靄がまだ残っていた。白い霧の向こうに聖堂の尖塔が霞んでいる。地面は夜露に濡れ、鎧のブーツが踏むたびにぬかるんだ音を立てた。空気が冷たく、息が白く曇る。鎧の隙間から入り込む寒さに、兵士たちが身を縮めている。けれど誰も文句を言わなかった。ここまで来たのだ。引き返すつもりはない。


 リーリエは隊列の中央に立っていた。カインが右に。レオンハルトが左に。後方にはリュカ率いる魔族の小隊と、各国の協力者たち。


 対岸——聖堂の門前に、教会軍が防衛線を張っている。


 白銀の甲冑。教会の紋章を掲げた盾。聖騎士の白い外套。数にして千を超える兵が、聖堂を背にして陣形を敷いていた。整然とした隊列。厳しい規律。一朝一夕では崩せない壁だった。


 けれどリーリエの目に映ったのは、兵士たちの顔だった。


 迷いがあった。


 盾の陰から覗く目に、恐怖があった。教会の命に従いつつも、自分たちが何を守っているのか——本当に理解しているのだろうか。理解していて、なお立っているのだろうか。朝靄の向こうに見える彼らの表情は、どこか翳りを帯びていた。聖女制度の真実が世に広まったことで、兵士たちの間にも動揺が走っている。それでも立っているのは——教会への忠誠か、命令への服従か。あるいは、真実を受け入れることへの恐怖か。


 リーリエには——わかる。真実を知ることは、痛いのだ。自分が信じていたものが間違っていたと認めることは、心を引き裂くようなことなのだ。


「敵の数はざっと千二百。城壁の上に弓兵が配置されている。正面からの突破は犠牲が大きい」


 レオンハルトが低い声で報告した。騎士としての冷静な分析。しかしその琥珀色の目には、かつての仲間と剣を交えることへの苦さが滲んでいた。


「犠牲は出さない」


 リーリエが言った。


 レオンハルトとカインが同時にリーリエを見た。


「まず、話します」


「リーリエ」


 カインが止めようとした。一歩前に出かけたリーリエの肩に手を伸ばし——しかし、リーリエが振り返った。


 その目を見て、カインの手が止まった。


 薄い青紫の瞳。かつて虚ろだった瞳に、今は光があった。決意の光。恐怖を押し殺してなお、まっすぐに前を向く光。


「……行け」


 カインが手を引いた。苦い顔で。けれど——信じることを選んだ顔で。


 リーリエは歩き出した。


 隊列の前に出た。一人で。両軍の間——誰の剣も届かない、しかし誰の矢も届く、灰色の地帯に。足元の土が冷たく湿っている。朝露に濡れた草が靴底で潰れ、青い匂いが立ち昇った。


 風が吹いた。銀灰色の長い髪が揺れた。朝靄が二つに裂けるように、リーリエの周囲だけ霧が薄くなった。紋章が微かに光っているせいかもしれない。左胸の奥で、聖なる炉の鼓動が脈打っている。


 背中にカインの視線を感じた。見なくてもわかる。きっと今、拳を握りしめている。リーリエが矢の射程に入ったことを、あの不器用な男は全身で感じ取っているはずだ。けれど——止めなかった。リーリエの選択を信じると決めたから。


 リーリエは声を張った。教会の訓練で学んだ、聖堂に響く発声法。ただし今、響かせるのは祈りではない。


「聞いてください」


 教会軍が身構えた。弓兵が弦に指をかけた。


「私はリーリエ。最後の聖女です」


 静寂が落ちた。朝靄の中に、その声だけが響いた。


「道を開けてください。もう——誰も犠牲にする必要はありません」


 声は静かだった。けれどまっすぐだった。この言葉を言えるようになるまでに、どれだけの時間がかかったか。死にたがりだった少女が「犠牲はいらない」と言うまでに。魔王城の温かいスープと、不器用な優しさと、仲間たちの笑顔が——少しずつ、少しずつ凍った心を溶かしてくれた。その全てが、今この声に宿っている。


 教会軍の中に——揺れる者がいた。盾を持つ手が震えた兵士。目を伏せた騎士。リーリエの声を聞いて、唇を噛んだ者。


 しかし。


「動くな」


 教会軍の指揮官が命じた。太い声。揺れる部下たちを律する、鉄の命令。


「大司教猊下の命により、いかなる者も聖堂への侵入を許さない。——聖女であっても」


 リーリエの言葉は、壁に跳ね返された。


 命令は教会軍を縛り、教会軍は聖堂を守っている。言葉だけでは——崩せない。リーリエはそれを理解していた。理解していて、なお声を上げた。聞いてくれた人がいたことが、無駄ではなかったと信じて。


 朝靄の中に、微かな嗚咽が聞こえた気がした。教会軍の中からだった。誰かが——泣いていた。聖女の声を聞いて、自分たちが何を守らされているのか気づいてしまった者がいたのだろう。


 リーリエの胸が痛んだ。あの声の主は、きっと葛藤している。教会に忠誠を誓った自分と、聖女を守りたいと思う自分の間で。


 言葉は跳ね返された。けれど——届いた人がいた。それは、確かだ。


 リーリエは振り返り、隊列に戻った。


 カインがリーリエを迎えた。


「無茶をするな」


「あなたに言われたくないわ」


 間髪入れない切り返し。カインが一瞬目を見開き——ふ、と息で笑った。口元がほんの少しだけ緩んだ。


「……変わらないな、お前は」


「あなたこそ」


 二人の間に、一瞬だけ——戦場には似つかわしくない穏やかな空気が流れた。


 リュカが後方で「いっつもこれだ」と呟いた。


「お嬢、旦那様、戦場でイチャつくのは後にしてくれません? 周りの士気に関わるんすけど」


「イチャついてない」


 カインとリーリエの声が重なった。リュカが「はいはい」と肩をすくめた。


 束の間の笑い。しかし笑いの後に残るのは、変わらない現実だった。


 教会軍は動かなかった。


「言葉だけでは動かせなかった」


 レオンハルトが静かに言った。腕を組み、教会軍を見据えている。琥珀色の目が真剣だった。


「次は——俺の番だな」


 風が吹いた。朝靄が揺れ、聖堂の輪郭が霧の中に浮かんでは消える。炉の脈動が、足元から微かに伝わってくる。リーリエの紋章がどくんと脈打ち、次の一手を急かすように光った。


 リーリエはレオンハルトを見た。かつてリーリエを連れ戻しに来た騎士。教会の正義を信じていた男。そして——真実を知り、聖女の側に立つことを選んだ男。


「レオンハルト。お願いします」


「ああ。任せろ——聖女殿」


 聖騎士団長は甲冑の胸当てに拳を当て、短く敬礼した。白銀の鎧が朝靄の中で鈍く光っている。その背中には——かつて教会の紋章があった場所に、何もない。紋章を外した傷跡だけが残っている。信仰を捨てたのではない。信仰の形を変えたのだ。


 琥珀色の目に、覚悟の光が灯った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。