進攻
灰色の空の下に、それは在った。
灰の聖堂——教会の本拠地にして、聖なる炉が眠る場所。数百年の歳月に磨かれた白い壁は、しかし白というよりも骨の色に近かった。天を衝く尖塔。無数の飛梁。色褪せたステンドグラスが曇天の光を受けて鈍く光っている。荘厳であり、そして——墓標のようだった。
荒涼とした大地に建つその巨大な聖堂は、まるで世界の果てに置かれた祭壇のように見えた。周囲には枯れた草原が広がり、風が灰色の塵を巻き上げている。空気は冷たく、乾いていて、どこか焦げたような匂いがした。炉の力が地面にまで染み出しているのかもしれない。地を踏むたびに靴底に伝わる微かな振動が、炉の鼓動と重なっているようだった。
リーリエは馬車を降りて、その全容を見上げた。
左胸の紋章が——脈打った。
どくん、と。心臓に重ねるように。いや、心臓そのものが聖堂の奥に在るかのように。遠く、深く、地の底から響いてくる鼓動。聖なる炉の脈動だ。リーリエにしか聞こえない音。紋章を通じて、炉が——呼んでいる。
「……来た」
呟いた声は小さかった。けれど確かだった。
炉の脈動の中に、微かな——声が混じっている。言葉にならない声。感情の残響。リーリエは目を閉じ、耳を澄ませた。
痛い。怖い。寂しい。——帰りたい。
歴代聖女たちの想いだ。炉に命を喰われた者たちの、消えきれなかった叫び。数百年分の悲しみが、地の底で渦を巻いている。
リーリエの目に涙が滲んだ。けれど——拭った。
「終わらせる」
声に力を込めた。あなたたちの分も。もう誰も、この炉に命を奪われない世界にする。
「リーリエ」
背後からカインの声がした。振り返ると、黒い外套を纏った長身の男が馬車から降りてきたところだった。深紅の瞳が聖堂を見上げ、細められる。数百年前——この男がまだ聖騎士だった頃、初代聖女がこの聖堂の地下に消えた。あの日以来、カインがこの場所に立つのは初めてのはずだった。
「……大きくなったな」
独り言のようにカインが呟いた。五百年前より増築されたのだろう。けれどその声の底にあるのは建物への感想ではなかった。五百年分の感慨が、短い言葉に沈んでいた。
カインの視線が聖堂の尖塔をなぞり、ステンドグラスを辿り、やがて正面の大扉に留まった。あの扉の奥に——初代聖女エルシェが消えた。カインの手が届かなかった場所。五百年間、悪夢の中で何度も叩いた扉。その扉が、今日、開く。
「大丈夫?」
リーリエが聞いた。
「ああ。——今さらだ」
カインの視線がリーリエに戻った。深紅の瞳に、一瞬だけ揺れがあった。すぐに消えた。この男はいつもそうだ。自分の感情を見せまいとする。けれどリーリエには——もう見える。五百年分の痛みが、この場所に立つだけで甦っていること。
リーリエはカインの手に、自分の手を重ねた。
何も言わなかった。ただ——触れた。
カインの指が、一瞬だけ震えた。そして——握り返した。強く。骨が軋むほどに。けれど痛くはなかった。その力は、しがみつく力ではなく——確かめる力だった。ここにいる、と。隣にいる、と。
「最後の戦いだ」
カインが言った。低く、静かに。けれど揺るぎなく。
「ええ」
リーリエは頷いた。
後方で馬のいななきが聞こえた。車輪の軋む音。甲冑の触れ合う金属音。味方勢力が次々と到着している。
レオンハルトが白銀の甲冑——ただし教会の紋章を外した無地のそれ——を纏い、良心派の騎士たちを率いて馬を降りた。右頬の古い刀傷が、曇天の光に影を作っている。彼の背後には、教会を離反して合流した聖騎士たちが整列していた。甲冑がぶつかり合う硬い音が、灰色の風の中に響く。
各国から集まった協力者たちが隊列を組み始める。騎士。兵士。魔術師。そして——魔族たち。リュカが小魔族たちを引き連れて荷車から飛び降りた。
「いやー、遠かったっすね。お嬢、大丈夫っすか? 車酔いとか」
「してないわ」
「旦那様は?」
「俺は車酔いしない」
「五百年ぶりのトラウマの地に立って大丈夫かって聞いたんすけど」
カインが無言でリュカを睨んだ。リュカは肩をすくめて「はいはい、大丈夫ですよね」と笑った。
異なる立場の者たちが、一つの目的のために並んでいる。人間も魔族も。騎士も民も。聖女の味方として、ここに集った。
リーリエの胸に、温かいものが広がった。
一年前——崖の上で死のうとしていた自分には、想像もできなかった光景だ。あの日の自分は一人だった。世界から切り離された、ただの燃料だった。けれど今——こんなにも多くの人が、隣にいてくれる。
「怖い?」
カインが聞いた。小声で。リーリエにだけ聞こえるように。
「怖い」
リーリエは正直に答えた。
「生きたいから、怖い。死にたがっていた頃は——怖くなかった」
カインが息を呑んだ。
「死にたがりには恐怖がないの。失うものがないから。でも今は——失いたくないものがある。あなたも。みんなも。だから怖い」
リーリエは微笑んだ。カインを見上げて。
「でもね。怖いって——すごく、生きてる感じがする」
カインの深紅の瞳が揺れた。唇が微かに動いた。何か言いかけて——飲み込んだ。代わりに、リーリエの手を強く握った。
「帰るぞ。必ず」
「ええ。必ず、一緒に帰りましょう」
聖堂の向こうで、教会軍の旗がはためいていた。防衛線が敷かれている。かつての聖騎士たち。教会の兵士たち。その顔に——迷いがあった。恐怖と忠誠が入り混じった、複雑な表情。
敵の中にも、人がいる。
リーリエはそのことを忘れない。
手を繋いだまま、リーリエは聖堂を見据えた。灰色の空の下、白い骨のような聖堂が待っている。その地下深くに、数百年間聖女の命を燃やし続けてきた炉がある。
風が止んだ。空気が張りつめた。世界が——息を止めたように。
リーリエは目を閉じた。
紋章を通じて、炉の脈動が全身に響いている。どくん。どくん。どくん。鼓動が呼んでいる。おいで、と。おかえり、と。炉にとって聖女は「燃料」であり「帰るべき場所」なのだ。その呼び声に、かつてのリーリエなら——抗うことすらしなかったかもしれない。燃料として呑み込まれることを、淡々と受け入れていたかもしれない。
今は違う。
呼ばれている。けれど、呼ばれるままに燃え尽きるつもりはない。
炉の脈動に、リーリエは無言で応えた。行く。けれどあなたを変えるために。もう二度と、一人の命で燃える炉にはしないために。
目を開けた。
灰色の空の下に、聖堂が待っている。
明日——世界が変わる。
聖なる炉が、脈打っている。




