炉の外にはいない
最後の夜——。
空気が澄んでいた。秋が終わりかけている。冬の足音が、夜風の冷たさに混じっている。けれど篝火の傍は温かく、人と魔族の声が入り混じって、陣営全体が一つの生き物のように息づいていた。
陣営の篝火が揺れている。明日の出発を前に、兵たちは思い思いに過ごしていた。甲冑の手入れをする者。剣を研ぐ者。祈りを捧げる者。仲間と語らう者。笑い声が聞こえる。緊張をほぐすための笑い。恐怖を紛らわすための笑い。それでも——笑えることが、人の強さだ。
カインがリーリエの天幕を訪れた。
「少し出ないか」
リーリエは顔を上げた。草稿の整理をしていた手を止めた。儀式の手順を最終確認していたのだ。炉の構造を書き換える手順。エルシェが遺した設計図の写しが広げてある。
「どこへ?」
「外。人のいないところ」
リーリエは立ち上がった。外套を羽織った。カインが天幕の裾を持ち上げた。
陣営の外れ。丘を少し登った先に、誰もいない場所があった。草地が広がり、頭上には星空。篝火の光はここまでは届かない。星の光だけが、二人の輪郭を照らしていた。月はなかった。星だけの夜。
カインが草地に腰を下ろした。リーリエも隣に座った。
しばらく——何も言わなかった。
風が草を揺らした。虫の声が聞こえた。遠くで篝火がちらちら光っている。穏やかな夜だった。明日が——世界を変える戦いの日でなければ、ただの美しい夜だった。二人で星を見るだけの、静かな夜。
「カイン」
リーリエが声をかけた。
「ん」
「何か、話したいことがあるんでしょう」
カインが——少し、笑った。息で。鼻から抜ける、微かな笑い。
「……バレるな」
「当たり前でしょう。あなたが自分から『出ないか』なんて言うときは、何かあるときよ。普段は出不精のくせに」
「出不精じゃない」
「五百年引きこもっていた人が何を言うの」
「引きこもってない。放浪していた」
「一人で放浪は引きこもりの亜種よ」
軽口の応酬。けれどその下に——二人とも知っている。今夜の会話が、特別なものになることを。
カインは星空を見上げた。深紅の瞳に星が映っていた。数え切れない星。五百年間、何度も見上げた星空。
「五百年前の話をする」
リーリエは黙って聞いた。膝を抱え、カインの横顔を見た。篝火の遠い光が、カインの輪郭をかすかに照らしている。
「エルシェが——初代聖女が、炉に入った日のことだ」
カインの声は——静かだった。穏やかだった。けれどその穏やかさの下に、底の見えない深さがあった。五百年分の深さ。五百年分の後悔。五百年分の——痛み。
「俺は——炉の外にいた」
一拍。
「止めたかった。止めようとした。エルシェの手を掴んだ。腕を引いた。行くなと言った。何度も。何度も」
カインの拳が——草を掴んだ。指の間から草がはみ出ている。
「けれどエルシェは——笑っていた。穏やかに。俺の手を解いて、炉に向かって歩いていった。振り返って、微笑んで——『あとを頼むわ』と。俺は追いかけた。炉の扉に手をかけた。けれど——扉は閉まった。俺の手の前で。間に合わなかった」
声が——微かに、震えた。五百年経っても。
「あの扉が閉まったとき、世界が終わった。俺にとっては——世界が終わったんだ。結界は蘇り、世界は救われ、人々は歓声を上げた。けれど俺の世界は——あの扉の向こうに消えた」
リーリエは何も言わなかった。カインの言葉を——ただ受け止めた。遮らない。慰めない。ただ——聞く。
「それから五百年。ずっと——あの扉の前に立っている気がしていた。開けられなかった扉。入れなかった部屋。そこに残してきたものを、取り戻す方法を——ずっと探していた。世界中を歩いた。古文書を読み漁った。エルシェが遺した手がかりを追った。五百年」
カインが——リーリエを見た。
深紅の瞳が、星の光を映して揺れていた。潤んでいた。けれど涙は流さなかった。
「今度は——炉の外にはいない」
その声は——静かだった。低かった。けれど——揺るぎがなかった。五百年の歳月が鍛え上げた、鉄のような決意。後悔の上に築いた、二度目の誓い。
「お前が炉に行くなら、俺も行く。扉の前で見ているだけは——二度としない。今度は——中に入る。お前と一緒に」
リーリエの目が——潤んだ。
五百年。この男は五百年間、閉じた扉の前に立ち続けていたのだ。開けられなかった扉。助けられなかった人。その後悔を——五百年間、一人で抱え続けて。
そして今——扉を開けると言っている。
「知ってる」
リーリエは微笑んだ。目尻が下がる、温かい笑み。涙が頬を伝ったが——拭わなかった。
「あなたは——来てくれる。ずっと知ってた」
「ずっと?」
「ええ。崖の上で私を拾ったときから。あなたは——来てくれる人だって。扉の前で止まる人じゃないって。あの日——落ちていく私を、掴んでくれたでしょう。あのとき、もう知ってたわ」
カインが——息を呑んだ。目が見開かれた。
リーリエの手が——カインの手に触れた。草の上で。指先が重なり、指が絡んだ。
カインの手は大きかった。剣を握る手。五百年の戦いを生き延びた手。けれどリーリエの手に触れるとき——震えていた。
「一緒に行きましょう」
リーリエが言った。声は静かだった。けれど——世界中のどんな声よりも、確かだった。
「炉の中に。一緒に。——そして、一緒に帰ってきましょう」
カインの指が——リーリエの指を、きつく握った。
「ああ」
たった一言。けれどその一言に——五百年分のすべてが詰まっていた。
二人は手を繋いだまま、星空を見上げた。
明日、世界が変わる。二人で——変える。
「こうして二人でいると」
リーリエが呟いた。星を見上げたまま。
「死にたいなんて——嘘みたい」
カインが隣で小さく息を吐いた。
「嘘じゃなかった。あの日のお前は——本当に、疲れ果てていた」
「ええ。嘘じゃなかった。でも——今は違う」
リーリエはカインの手を握り直した。温かかった。大きくて、硬くて、けれど温かかった。
「今は——生きたい」
星が瞬いた。風が凪いだ。世界は——静かだった。
明日、聖なる炉に向かう。灰の聖堂に。五百年前に始まった物語の終着点に。
けれど終わりではない。始まりだ。
聖女制度を終わらせ、誰も犠牲にしない世界を作る。そのために——戦う。二人で。仲間と共に。
「万の灯火」——終幕。
聖なる炉が、待っている。




