魔族の誓い
彼らは——夜にやってきた。
その夜は月がなかった。星だけの空。篝火が揺れ、陣営の輪郭を橙色に照らしている。聖騎士たちは交代で見張りに立ち、市民たちは天幕の中で眠っていた。風は穏やかで、空気は冷たかった。
魔族は陽の光を嫌うわけではない。けれど人間の領域を大勢で移動するには、夜の方が都合がいい。人目を避けるためだ。魔族が集団で街道を歩けば——恐慌が起きる。五百年の「魔王の恐怖」は、そう簡単には拭えない。
合流地点の篝火が揺れる中、丘の向こうから——気配が近づいた。人間の兵士では感知できないほど静かな気配。けれどカインは——すぐに気づいた。
リーリエは天幕の外に出た。夜風が髪を揺らした。星空の下、篝火の光が揺れている。
暗闇の中から——影が浮かび上がった。
先頭に立っていたのは、見慣れた顔だった。
「よぉ、お嬢。遅くなってすまねぇな」
リュカ——ではない。リュカより背が高く、肩幅が広い。栗色ではなく灰褐色の髪。琥珀ではなく金色の瞳。顔の造りはリュカに似ているが、もっと厳つい。
魔王城の従者長、ハインツだった。
半霊族の戦士。リュカの叔父。カインに三十年以上仕えてきた古参の従者。普段は城の管理と警備を取り仕切っている。口が悪い。態度がでかい。けれど——情の深さは、城の誰もが知っている。
「ハインツ」
リーリエの顔が——綻んだ。笑顔。本物の笑顔。
「お嬢、元気そうで何よりだ。顔色がいいぞ。——って言いたいところだが、少し痩せたな。飯、食ってるか」
「食べてるわ。カインが食べさせるから」
「旦那様が? はっ、あの人の料理で腹が膨れるかよ。味音痴の料理なんざ栄養にならねえ」
「聞こえているぞ」
カインの低い声が暗闇から響いた。ハインツが歯を見せて笑った。
ハインツの後ろから——次々と姿が現れた。
厨房のコック長、ドルク。角のある大柄な魔族で、鍋を振らせれば右に出る者はいない。今日も巨大な鍋を背中に担いで来ていた。「お嬢に温かいもの食わせてやらにゃ」とそれだけの理由で、重い鍋を数日間担いで歩いてきたのだ。
庭師のフィーネ。植物を操る妖精族の女性。魔王城の庭を一人で管理していた小柄な老女。腰が曲がっているが足取りは確かだった。手には薬草の束を持っている。
警備兵たち。鍛冶場の職人。洗濯担当の双子。城の書庫を守っていた魔導士。全員が——来ていた。
「……全員じゃない」
リーリエは目を見開いた。
「全員だよ」
ハインツが笑った。
「城は留守にしてきた。どうせしばらく戻らないだろう? なら全員で来た方がいい。城は——空っぽでも壊れやしねえ。けど俺たちは——お嬢がいなきゃ壊れちまう」
リーリエの目が——熱くなった。視界が滲んだ。
「でも——カインの命令で?」
「違ぇよ」
ハインツの声が——真剣になった。金色の瞳がまっすぐにリーリエを見た。冗談の色は消えていた。
「俺たちは主様の命令で来たんじゃない」
一拍の沈黙。篝火の炎が揺れた。
「お嬢は俺たちの家族だ。家族のために戦うのに——理由はいらねぇ」
リーリエは——泣き笑いの顔になった。涙が溢れて、けれど口元は笑っていた。
「ありがとう」
声が掠れた。
「みんな——ありがとう」
従者たちがリーリエを囲んだ。コック長が「腹減ってるだろう、今から作るぞ」と鍋を地面に降ろした。庭師のフィーネが「お嬢様、肌が荒れてますよ。薬草クリーム持ってきましたからね」と小さな瓶を差し出した。警備兵が「合流地点の警備は任せてくれ」と胸を叩いた。洗濯担当の双子が「お嬢のお召し物、ちゃんと洗えてます? 見せてください」と駆け寄った。
魔王城の日常が——ここに来た。リーリエの「帰りたい場所」が、リーリエのところに来たのだ。
カインは——少し離れた場所に立っていた。
人間と魔族が並んでいる。聖騎士団の白い甲冑と、魔族の従者たちの黒い服が、同じ篝火の光に照らされている。五百年前には——ありえなかった光景。人間は魔族を恐れ、魔族は人間を避けた。その間に——五百年の溝がある。けれど今、同じ火を囲んでいる。
「数百年で——こんな光景は初めてだ」
カインが呟いた。声が——低かった。深かった。
「……長かったな」
五百年。たった一人で歩いた五百年。初代聖女を失い、教会に追われ、「魔王」の汚名を着せられ、暗闇の中を歩き続けた五百年。その果てに——こんな光景がある。
リュカがカインの傍に来た。
「旦那様。いい顔してますよ」
「……してない」
「してますって。五百年分くらい、いい顔です」
ハインツが声を上げた。
「さぁて、好きな料理作ってやるから、戦いの前に食え! お嬢、何がいい?」
「何でもいいわ。みんなで食べられるものなら」
「よし、大鍋だ! ドルク、出番だぞ!」
「任せろ!」
コック長が鍋を火にかけた。聖騎士たちが匂いに引き寄せられてきた。辺境の領主が「うまそうだな」と寄ってきた。
カインが輪の端で立っていると、ハインツが振り返った。
「旦那様は——自分で作れるでしょう」
カインは何も言い返さなかった。ただ——口の端が、僅かに上がった。五百年の孤独を知る男が、人と魔族が同じ火を囲む光景を見ている。大鍋の湯気が立ち上り、笑い声が交錯している。新しい光景。五百年で初めての光景。
リーリエがカインの傍に来た。大鍋のスープを二つの碗に注いで。
「一緒に食べましょう」
「……ああ」
カインはスープを受け取った。温かかった。




