ある母の告白
その母親の名は、マルタと言った。
後に「最初の声」と呼ばれることになる女性。けれどこのとき、マルタ自身は自分がそんなものになるとは思っていなかった。
中央から少し外れた、穏やかな街に住む女だった。夫は鍛冶屋で、腕のいい職人だ。七つになる娘が一人。教会には毎週欠かさず通い、聖女の祝福を受けた日のことを大切に語り継いでいた。ごく普通の、善良な市民。
あの日——聖女がマルタの街を訪れた。三年前のことだ。
結界の祝福式典。年に一度、聖女が各地を巡り、結界を強化する儀式。教会の祭壇に立った聖女は、白い聖衣を纏い、銀灰色の髪を垂らした少女だった。まだ十四歳か十五歳に見えた。華奢で、透けるように白い肌で、微笑んでいた。
マルタは娘を連れて式典に参加した。聖女の手が娘の頭に触れたとき——温かい光が溢れ、娘が「あったかい」と笑った。マルタも笑った。ありがたい。聖女様のおかげで、私たちは守られている。
それから三年。マルタは娘にいつも言い聞かせた。
「聖女様のおかげで、お母さんも、お父さんも、あなたも——みんな守られているのよ」
感謝の言葉。善意の言葉。けれどその言葉の裏に——どれほどの犠牲が隠されているか、マルタは知らなかった。知ろうとしなかった。
その日の朝も、そう言いかけた。
朝食の席で、七歳の娘がパンを齧りながら聞いた。
「お母さん、聖女様って今もお元気なの?」
マルタは口を開いた。「もちろんよ。聖女様のおかげで——」
言葉が、途切れた。
昨日、広場で聞いた声が蘇った。良心派の修道士が読み上げた、聖女の言葉。あの声を聞いたとき、マルタは周囲の人々と同じように「嘘だ」と思った。「魔王の策略に違いない」と。大司教の声明を読んで、「確実な方がいい」と頷いた。
けれど——夜、布団の中で、眠れなかった。
あの日の聖女の顔が——浮かんだ。
三年前。祝福式典。祭壇に立った少女。白い聖衣。銀灰色の髪。
その目を——思い出した。
穏やかな笑みだった。微笑んでいた。けれど——目が、笑っていなかった。薄い青紫の瞳は、どこか遠くを見ていた。焦点が合っていなかった。疲れていた。十四歳か十五歳の少女が——あんなに疲れた目をしていた。
娘の頭に手を置いたとき——聖女の手は、冷たかった。あの温かい光の中で、聖女自身の手だけが——冷たかった。
あの子は——私の娘と同じくらいの年の、ただの女の子だった。
「お母さん?」
娘の声で、マルタは我に返った。
「どうしたの、お母さん。泣いてるの?」
マルタは自分の頬に手を当てた。濡れていた。いつの間に——泣いていた。
「ごめんね。何でもないの」
けれど何でもなくはなかった。
マルタは立ち上がった。台所を片付け、夫に声をかけ、娘の手を引いて外に出た。普段と同じ朝の光景。けれどマルタの中で——何かが変わっていた。
隣の家の女と話した。パン屋の店主と話した。井戸端で出会った老人と話した。
「聖女は——私の娘と同じくらいの年の子だったのよ」
声が震えた。
「あの子が痛みの中で結界を支えているって——本当なのかしら。本当だとしたら——私たちは、何をしていたの。ありがとうって——ありがとうって言いながら、あの子を苦しめていたの」
マルタの言葉は、論理ではなかった。政治でも宗教でもなかった。大司教の功利主義に対する反論でもなかった。ただ——母親の言葉だった。
自分の娘と同じ年の子が苦しんでいる。それを知って——黙っていられるか。数字の問題ではない。「一人の犠牲で万人が救われる」——その「一人」に、自分の娘を重ねたとき、数字は崩壊する。
マルタの言葉は小さかった。一人の母親の声。けれどその声が——隣の母親に届き、その母親がまた別の母親に話し、パン屋から市場へ、市場から酒場へ、酒場から家庭へ。
波紋のように。静かに。しかし確実に。
「知っていたかもしれない」
マルタは夜、娘を寝かしつけた後に呟いた。暗い寝室で。夫の寝息を聞きながら。
「心のどこかでは——知っていたかもしれない」
聖女が若くして亡くなること。次の聖女がすぐに選ばれること。誰も聖女の苦痛について語らないこと。おかしいと——思わなかったか。いや、思った。思ったけれど——考えないようにした。目を逸らした。
見て見ぬふりを、していた。
隠れ家にその報告が届いたのは数日後だった。
「辺境の街で、ある母親の話が広まっているそうです」
リュカが報告した。声に——温もりがあった。
「聖女は自分の娘と同じ年だった——と。その話が母親たちの間で広がって、少しずつ空気が変わり始めていると」
リーリエは報告を聞いた。目が——潤んだ。
「……届いている。少しずつ」
声が掠れた。
「あの母親に——ありがとうと言いたい」
リーリエが呟いた。
「いつか直接言えばいい。この戦いが終わったら」
カインが言った。その声に——約束の響きがあった。
「そうね」
リーリエは——微笑んだ。目尻が下がる、穏やかな笑み。
「終わらせましょう」
窓の外で、風が木々を揺らしていた。秋の風。冷たいけれど、どこか清々しい。世界は——少しずつ、変わり始めている。マルタのような人が、一人、また一人と声を上げている。
まだ足りない。まだ十分ではない。けれど——種は蒔かれた。芽は出た。
あとは——育てるだけだ。




