見て見ぬふり
潮目が——変わり始めた。
それは劇的な転換ではなかった。朝起きて窓の外を見れば、世界は昨日と同じように見える。雲が流れ、風が吹き、鳥が鳴いている。けれど——空気の質が、微かに変わっていた。言葉にできない変化。水面下で何かが動いている、そういう気配。
真実の公開から一週間。最初の拒絶の嵐が過ぎた後、各地の報告に新しい色が混じり始めた。拒絶の赤ではなく——動揺の灰色。そして微かな、理解の青。
「本当は知っていた」
その言葉が——あちこちで、漏れ出している。
リーリエは隠れ家の卓で報告を読んだ。拒絶一色だった反応が、微かに——けれど確かに——変わっている。
ある港町からの報告。
——酒場で漁師たちが話していた。「聖女が若くして亡くなるのは、昔からおかしいと思っていた」「代替わりが早すぎる。十年に一度だぞ。病気だと言われていたが——あんな健康そうな娘が、十年ももたないのか?」「おかしいと思っていた。思っていたが——言わなかった」
ある農村からの報告。
——村の長老が言った。「わしの祖母の代に聖女の祝福を受けた。あの聖女も若かった。若すぎた。祖母は死ぬまで言っていた、『あの子の目が忘れられない。あんな目をする子を、聖なるお方と呼んでいいのか』と」
長老の言葉は、五十年以上前の記憶だった。それが今——蘇っている。真実を聞いたことで、封じ込めていた記憶が、意識の表面に浮かんできたのだ。
そして——ある街の酒場からの報告が、リーリエの胸を貫いた。
場面は夜の酒場だった。良心派の修道士が密かに聞き取った会話。
「嘘だと思いたいさ。でもな——」
一人の男が言った。鍛冶屋だという。大きな手で杯を握っている。
「聖女が若くして亡くなるのは、昔からおかしいと思っていたんだ。十年に一度、代替わりする。新しい聖女が来る。前の聖女がどうなったか——誰も聞かない。聞いちゃいけない空気がある。教会で前の聖女の話をすると、聖職者が話題を変える。おかしいだろう」
別の男が応えた。鋳物師。杯を置いて、低い声で。
「俺もだ。薄々——感じていた。でも考えないようにしていた。だって、結界が守ってくれてるんだ。その仕組みを疑ったら——俺たちの日常が崩れる。平和が崩れる。だから——考えなかった」
沈黙が落ちた。酒場の騒がしさの中で、この一角だけが——静かだった。
そして——一人が言った。声が——震えていた。
「見て見ぬふりをしていたのは、教会じゃない。俺たちだ」
リーリエは報告書を卓に置いた。手が震えていた。けれど今度は——悲しみからではなかった。
届いている。
リーリエの言葉が——人の心の底に沈んで、そこにあった「知っていた」という自覚を浮かび上がらせている。最初は拒絶した。嘘だと叫んだ。けれど夜、一人になったとき。酒場で仲間と飲んでいるとき。子供の寝顔を見ているとき——真実が、心の表面に浮かんでくる。
押し込めていた違和感。見て見ぬふりをしていた罪悪感。それが——少しずつ、言葉になり始めている。最初は囁き声で。けれどやがて——声になる。
「見て見ぬふりをしていたのは、俺たちだ」——その言葉は、大司教の論理に対する最も鋭い反論だった。大司教は「一人の犠牲で万人が救われる」と言った。けれどその「万人」は——犠牲を知りながら黙っていた。知らなかったのではない。知ろうとしなかっただけだ。
「……届いている」
リーリエの目が潤んだ。薄い青紫の瞳に、涙が滲んだ。嬉しい涙だった。
「お前の言葉が、人の心を動かしている」
カインの声が——低く、静かに響いた。傍に立っていた。報告書を読んではいない。リーリエの表情だけを見て——何が書いてあるか、悟ったのだろう。
「まだ十分じゃないわ。変化の萌芽にすぎない。でも——」
「芽は出た。あとは水をやるだけだ」
「水を」
「次のメッセージだ。最初は告発だった。次は——何を言う」
リーリエは涙を拭おうとした。手の甲で。けれどその前に——カインがハンカチを差し出した。
黒い布のハンカチ。無骨な。けれど清潔な。いつの間に用意していたのか。
「泣くな」
「泣いてないわ」
「嘘つきめ」
「あなたに言われたくないわ」
リーリエはハンカチを受け取った。目元を押さえた。カインの匂いがした。鉄と古い書物の匂い。この匂いに——もう、安心する。
変化は始まった。まだ微かだ。まだ十分ではない。大司教の論理はなお強い。民衆の多数はまだ拒絶している。
けれど——亀裂が入った。心の壁に。五百年分の見て見ぬふりに。
次のメッセージが必要だ。今度は告発ではなく——問いかけ。
「告発は壁を作る。問いかけは——壁の中に入る」
カインが——僅かに目を見開いた。そして、頷いた。
「告発は壁を作る。問いかけは——壁の中に入る」
リーリエの目が——鋭くなった。もう虚ろさはない。代わりに、鋭い知性と、静かな決意があった。
「やれ」




