熱と手
痛みは、いつもと違った。
書庫で本を読んでいた。星の運行についての続き。頁を繰る指先は安定していて、体調に問題はなかった——はずだった。
唐突に、胸が痛んだ。
結界の鈍痛ではない。あれは全身を薄く灼く、慣れた苦痛だ。今のは違う。胸の内側から何かが引っ張られるような、鋭い痛み。心臓を糸で引き絞られるような感覚。
リーリエは本を落とした。
両手で胸を押さえ、椅子に深く沈んだ。呼吸が浅くなる。視界の端が白く霞む。
指先が——また光っていた。右手だけでなく、左手も。爪先から白銀の光が漏れ、胸の紋章が衣服の上からでもわかるほど強く明滅している。
「……っ」
声が漏れた。痛みに声を上げたのは、久しぶりだった。教会で鍛えられた忍耐が、ここにきて追いつかない。
数秒——あるいは数十秒。痛みが引いた。波のように寄せて、引いた。指先の光も消え、紋章の明滅も止まった。リーリエは荒い呼吸を整え、落とした本を拾い上げた。
手が——冷たかった。
指先から体温が引いている。血の気が薄い。爪の色が青白い。
「……また、ですか」
呟いた。「また」。前回よりも痛みが強い。症状が進んでいる。結界が身体を蝕む速度が上がっている。
以前なら「それでいい」と思っただろう。身体が壊れるなら壊れればいい。早く終わるなら、それに越したことはない。
今は——微かに、違った。
「それでいい」の後に、一拍の躊躇がある。ほんの僅かな——「嫌だ」の影。痛みそのものが嫌なのか、壊れていくことが嫌なのか。わからない。わからないが、以前はなかった躊躇が、確かにある。
扉が開いた。
カインだった。茶を持って——しかし茶碗が机に置かれる前に、カインの目がリーリエの手を捉えた。
蒼白い手。体温を失った指先。
「何があった」
「何も」
「嘘をつくな」
「嘘ではありません。少し痛かっただけです」
「少しじゃないだろう。手を見ろ」
カインがリーリエの前に膝をつき、その手を取った。リーリエの手は小さく、カインの手は大きい。温度の差が歴然だった。リーリエの指先は氷のように冷たく、カインの掌は火のように熱い。
「冷たいな」
カインが両手でリーリエの手を包んだ。大きな手が、小さな手を覆い尽くす。体温が移ってくる。じわりと、ゆっくりと。カインの掌には剣だこの硬い感触があり、けれどその奥から伝わる熱は驚くほど優しかった。
「……離してください」
「嫌だ」
短い拒否。カインの常。言葉は少ないが、意志は鉄のように硬い。
書庫の高窓から差す光が二人の手に落ち、銀と黒の影が重なっている。紙とインクの匂いに混じって、カインの外套の微かな革の匂いがした。リーリエは手を引こうとした——引けなかった。カインの手が強いのではない。むしろ力は緩い。振り払おうと思えば振り払える。
けれど——振り払わなかった。
以前のリーリエなら「触らないでください」と即座に拒否していた。他人の体温を受け入れる理由がなかった。触れられることに意味を見出せなかった。
今は——カインの手が温かい。それだけのことだ。冷たい手が温まっている。物理的な現象。それ以上でも以下でもない。
——はずだ。
なのに手を引かないのは、なぜだろう。
カインは黙ってリーリエの手を握り続けた。沈黙が続いた。書庫の時計が秒針を刻む音だけが、二人の間に響いている。リーリエは握られた手を見つめ、カインは俯いている。彼の黒い髪が額にかかり、表情が読めない。けれど手の力加減だけは伝わってくる。強すぎず、弱すぎず——離したくない、けれど壊したくない。そういう力だった。
「……温かくなりましたか」
マリカの声に、二人は同時に振り返った。マリカが扉の前に立っていた。いつの間にか茶を持ってきていたらしい。しかし入室するタイミングを見失い、扉の前で固まっていたようだ。
「——出直します」
「待ちなさい、マリカ」
「いえいえいえ、お邪魔は——」
「邪魔ではありません。何も起きていません」
リーリエが手を引いた。今度はカインが離した。
マリカが顔を赤くしながら茶を置き、早足で出ていった。廊下で「ヴェルナーさん、ヴェルナーさん!」と呼ぶ声が聞こえた。
カインが立ち上がった。
「体調が悪いなら言え」
「言っても同じことです」
「同じじゃない。俺が——」
言いかけて、止まった。
「俺が調べている。方法を探している。だから——もう少し待て」
「何の方法ですか」
「……まだ言えない」
「隠し事が増えましたね」
「ああ。悪いが」
カインが書庫を出ていった。
その足音は速かった。急いでいる。どこかに——おそらく、自分の書斎に。文献の山が待っている場所に。
夜。
カインの書斎に灯りが点っていた。ヴェルナーが向かいの椅子に座り、二人で文献を広げている。
「何か見つかりましたか」
「まだだ。だが……結界との繋がりを断つ方法があるはずだ。炉の構造を変えるか、媒介の接続を書き換えるか」
「あの時も、こうして調べていたのですか」
ヴェルナーの問いに、カインの手が止まった。
「ああ。あの時も。間に合わなかった」
沈黙。
「今度は間に合わせます」
ヴェルナーが静かに言った。カインは黙って頷き、文献に目を戻した。
深夜。カインは机に突っ伏していた——眠ったのではない。文献の一節に目が留まり、読み込んでいるのだ。
——結界と聖女の接続は不可逆ではない。しかし接続を断つには、聖なる炉そのものの構造に介入する必要がある。
聖なる炉。
五百年前、あの人が命を捧げた場所。カインが最も恐れる場所。封じられた部屋に保管した遺品の中に、あの人が遺した炉の構造に関するメモがある——
カインは顔を上げた。
封じられた部屋。
あの扉を開ける日が、来るのかもしれない。
リーリエの部屋では、リーリエが眠っていた——はずだった。
目は閉じている。しかし意識は沈みきらない。右手が、まだ温かかった。カインに握られた手。大きな掌の温度が、まだ指先に残っている。
振り払わなかった。
なぜ。
カインの手はなぜあんなに温かかったのだろう。五百年を生きた手。数えきれないほどの剣を振るった手。それが——こんなにも温かい。
答えが出ないまま——ようやく、眠りに落ちた。




