昔のこと
それは、何気ない午後の出来事だった。
リーリエはマリカと居間で茶を飲んでいた。窓から差す光が穏やかで、花茶の甘い香りが漂っている。日課になりつつある午後の茶の時間。リーリエは無言で茶を啜り、マリカは繕い物をしながら穏やかに微笑んでいる。
扉が開き、従者の一人が入ってきた。小柄な魔族の従者で、名はトーマという。書庫の整理を担当しており、真面目だが少々そそっかしい。
「マリカさん、旦那様から伝言です。今夜の食事は遅くなるので先に済ませてほしいと」
「わかりました。聖女様にもお伝えしますね」
「あ、はい。あと、書庫の整理をしていたら古い手紙の束が出てきまして。旦那様に確認したいのですが」
「それは直接お聞きになって」
「ですよね。……旦那様は昔から聖女様のことを——」
マリカが咳払いをした。
鋭く、はっきりと。食器を洗う音のような自然さを装いながら、その実、刃のように正確なタイミングだった。繕い物の針が一瞬止まり、すぐに何事もなかったように動き出す。
トーマが口を噤んだ。目を見開き、自分が何を言いかけたかに気づいた顔。
「あ、いえ、何でもありません! 失礼しました!」
早口で言い繕い、一礼して部屋を出ていった。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
マリカが笑った。少し引き攣った笑い。
「あの子ったら、変なことを」
リーリエは茶碗を口に運んだ。
飲んだ。温かい花茶が喉を滑り落ちる。
黙っていた。
追及しなかった。マリカが慌てて話題を変え、「今日のお茶は新しい種類なんですよ」と言い、「町の市場で仕入れたもので」と続けた。リーリエは相槌を打ちながら、茶を飲み続けた。
しかし——聞こえていた。
「旦那様は昔から聖女様のことを」。
トーマが言いかけた言葉は、途中で止められた。しかしその断片だけで、十分だった。
「昔から」。
カインが聖女に執着する理由は、リーリエが崖から落ちたあの日に始まったのではない。それ以前から——「昔から」——聖女に関わる何かがあった。
「聖女様のことを」の後に続く言葉は何だったのか。「気にしていた」か。「探していた」か。あるいは——もっと別の何かか。
マリカの咳払いの速さ。トーマの慌てぶり。明らかな口止め。城の従者たちは、カインの過去について何かを知っている。そしてリーリエには隠している。
茶を飲み終え、カップを置いた。
「マリカさん」
「はい?」
「美味しいお茶でした」
「あ……ありがとうございます」
マリカが安堵の表情を浮かべた。リーリエが追及しなかったことに。肩の力が目に見えて抜け、繕い物の針がまた動き始めた。けれどリーリエは気づいていた。マリカの指が微かに震えていることに。口止めの失敗を恐れているのだ。カインに知られたら、トーマが叱られるだろう。
追及しないことは、忘れることとは違う。リーリエはカップの底に残った茶葉の渦を見つめながら、全てを記憶に留めた。茶の温度がゆっくりと冷めていくのを指先で感じていた。
リーリエは立ち上がり、部屋を出た。
廊下を歩きながら、考えていた。石壁に手を沿わせて歩く。冷たい石の感触が指先に伝わる。午後の光が壁の凹凸に影を落とし、廊下を歩く自分の足音だけが静寂の中に響いている。窓から差す午後の光が床に長方形の影を作り、リーリエはその光の中を通り過ぎていく。
カインの過去。封じられた部屋。聖騎士の剣に似た古い剣。星の名前を教えた「覚えていない」誰か。そして——「昔から聖女のことを」。
断片が少しずつ集まっている。まだ全体像は見えない。しかし一つだけわかることがある。
カインには、語られていない長い過去がある。そしてその過去は——聖女と、深く繋がっている。
リーリエはそれまで、他人の過去に興味を持ったことがなかった。自分の未来すらどうでもいい人間が、他人の過去を気にする理由がない。教会の司祭たちの経歴にも、修道女たちの物語にも、一度として関心を持ったことがなかった。
けれど今——カインの過去が、気になった。
なぜこの人は五百年も生きているのか。なぜ封じられた部屋があるのか。なぜ聖騎士の剣と同じ型の剣が城にあるのか。なぜ「昔から」聖女のことを。
「気になる」という感情が、どこから来るのかわからない。好奇心なのか。単なる観察力の延長なのか。あるいは——カインという人間そのものへの、何か。
夕食の時間になった。
食堂でカインの向かいに座り、リーリエはいつものように食事を始めた。スープを啜り、パンをちぎり、肉を切る。淡々と。
ただ——今日は少しだけ、カインを長く見た。
カインがパンをちぎる手つき。スプーンを持つ角度。食事中に時折窓の外を見る横顔。
「どうした」
カインが気づいた。リーリエの視線に。
「……何でもありません」
カインが眉を寄せた。「何でもない」——それはカインがよく使う言葉だ。リーリエがそれを返すのは、初めてだった。
カインは怪訝そうな顔をしたが、追及しなかった。
リーリエはスープに目を戻した。
この人は何者なのか。
なぜ私を守るのか。
「昔から聖女のことを」——その先の言葉は。
知りたい、と思った。その感情が胸の中で生まれた瞬間を、リーリエは自分でも感じ取った。凍った湖面に最初の亀裂が入るように——小さく、けれど確かに。
初めて——他人のことを「知りたい」と。
それが何を意味するのか、リーリエはまだわからない。けれど胸の奥で、小さな火が灯ったような感覚があった。
好奇心。あるいは——関心。
死にたがりの少女が、世界に対して抱いた最初の「問い」。
なぜこの人は、私を守るのか。
その答えを知ることは——世界を知ることの、始まりなのかもしれなかった。
夜になっても、リーリエはトーマの言いかけた言葉を考えていた。「昔から聖女のことを」。その先に続く言葉は何だったのか。窓の外に星が瞬いている。カインが教えてくれた冬の女王座が、空の高い位置で光っていた。あの星を教えてくれた人の過去を、リーリエは知りたいと思っている。
「知りたい」。その二文字が、リーリエの中で育ち始めていた。




