星の名前
屋根の上は、リーリエの場所になりつつあった。
最初に足を踏み入れたとき、ここは死に場所だった。今は——空を見る場所になった。瓦の表面は昼の熱を僅かに残していて、座ると背中にぬるい温もりが伝わる。風が耳の横を通り過ぎるとき、小さな笛のような音がする。城の尖塔が風を切っているのだ。
最初に来たのは——崖から落ちたあの日のすぐ後のことだった。あのときは、高い場所から飛び降りるために。今は、違う。空を見るために、ここに来る。
自分でも奇妙だと思う。同じ場所に、違う理由で通っている。
夜。リーリエは城の屋根に座っていた。瓦の上は少し冷たいが、不快ではない。風が緩やかに吹いている。空は晴れていて、星が——驚くほど多かった。
教会の地下にいた頃は、星を見ることがなかった。空を見上げる余裕がなかった。ここに来て、空の広さを知った。そして星の多さを。
足音がした。
屋根の上を歩く音。重くはないが、確かな足音。
「また来てるのか」
カインが隣に座った。黒い外套が夜風になびいている。
「ええ」
「飛び降りるつもりか」
「今日は違います」
「今日は、か」
「空が見たかっただけです」
カインは何も言わず、空を見上げた。リーリエも同じように見上げた。二人の間に沈黙が落ちたが、雨の日の客間と同じ——不快ではない沈黙だった。
カインが指を上げた。空の一点を指している。
「あれが遠見星。冬の女王と呼ばれる。この季節にあの位置にあるのは珍しい」
「冬の女王」
「冬至の夜に最も高く昇る星だ。旅人はこの星を目印にして北を知る」
リーリエは指の先を目で追った。確かに一つ、他より明るく光る星がある。青白い光。
「あちらは」
リーリエが別の星を指した。空の低い位置に、橙色に光る星。
「灯守星。旅人の道標。あの星が見える方角に、街道がある」
「街道を照らす星ですか」
「正確には、街道を作った人々があの星に向かって道を敷いた。星が先で、道が後だ」
リーリエは少し黙った。星が先で、道が後。人は星を目印にして、地上に道を引いた。星は何も語らないが、人がそこに意味を読み取った。
「詳しいのですね」
「昔、誰かに教わった」
「誰に?」
カインが一瞬——ほんの一瞬、間を置いた。
「……覚えていない」
嘘だった。
カインの嘘は、もう何度も聞いた。視線が逸れる。声のトーンが僅かに落ちる。今も同じだった。星の名前を教えてくれた「誰か」を、カインは覚えている。覚えているのに、語らない。
リーリエは追及しなかった。代わりに空を見上げた。
「あの星の群れは何ですか」
空の天頂近く、小さな星が集まっている。まるで散らばった宝石のように。
「織女座。五つの星が織物の形に並ぶ。春の夜に見える星座だ。あの一番明るいのが糸星——糸を紡ぐ者という意味だ」
カインの声は静かだった。星の名前を語るとき、この人の声から棘が消える。淡々と、けれど丁寧に、星の名前を紡いでいく。
リーリエはふと聞いた。
「星座の名前をこれほど知っているのは——何百年も観察し続けたからでは?」
冗談のつもりだった。半分は。
カインが黙った。
沈黙が数秒続いた。星の光が二人の間に降り注いでいる。
「冗談です」
夜風が二人の間を通り抜け、リーリエの銀灰色の髪を揺らした。瓦の上に座った身体が微かに冷えているが、星の光が肌に柔らかく降り注いでいて、不快ではなかった。
リーリエが言った。
「……ああ、冗談だな」
カインが答えた。
しかし——二人とも、それが冗談でない可能性を感じていた。カインが数百年を生きていること。星の名前を長い長い夜の中で覚え続けたこと。リーリエの鋭い直感がそれを嗅ぎ取り、カインの沈黙がそれを肯定しかけた。
今はまだ——「冗談」で済ませる。
「フェアシュテルン」
リーリエが呟いた。
「え?」
「冬の女王、でしょう。覚えました」
カインが横を向いた。リーリエの横顔を見ている——が、すぐに空に視線を戻した。
「覚えたのか」
「ええ。リュッケンリヒトも。シュピンネも」
「……そうか」
死にたがりが、星の名前を覚えた。
明日死ぬかもしれない人間が、星の名前を記憶に刻んだ。それは——この世界に、新しい知識を根づかせること。花の名前を覚え、料理の味を覚え、そして今度は星の名前。
リーリエの世界に少しずつ、ものが増えている。
「カインさま」
「何だ」
「星は、綺麗ですね」
短い言葉だった。「綺麗」——リーリエの口からその言葉が出たのは、城に来て初めてかもしれない。教会にいた頃は「綺麗」を使う場面がなかった。祈りの言葉に美醜は含まれない。聖典に「綺麗」の一語はない。
けれど今、星を見て「綺麗」と思った。思っただけでなく——口にした。感情が凍りつく前、村にいた頃の自分なら当たり前に使っていた言葉。それが、長い冬眠から目覚めるように——唇から零れ落ちた。
カインは答えなかった。ただ空を見上げていた。
二人は屋根の上で、しばらく星を見ていた。冬の女王が空の高い位置で光り、旅人の道標が地平線近くで橙色に輝いている。糸を紡ぐ者が天頂で小さく瞬いている。
やがてリーリエが立ち上がった。
「戻ります」
「ああ」
「おやすみなさい、カインさま」
「……ああ」
屋根を降りるリーリエの後ろ姿を、カインは見送った。銀灰色の髪が夜風に揺れ、星の光を反射している。
あの人にも——星の名前を教えたことがあった。
五百年前の夜。同じ屋根の上で。同じ星を指して。あの人は笑いながら星の名前を復唱していた。「フェアシュテルン、覚えたわ」と。
今日、リーリエが同じ言葉を口にした。
カインは拳を握り——そして、開いた。
「違う人だ」
呟いた。
「あの子は——リーリエだ」
星は何も答えない。ただ光っている。五百年前と同じ位置で、同じ明るさで。
冷たい瓦の上に座ったまま、カインは拳を膝の上に置いた。五百年。五百回の冬。五百回の冬の女王座。それでもなお、同じ星空を見上げ続けている。もう一度だけ——正しく見るために。
遠くで風が木々を揺らし、葉擦れの音が夜の静寂に溶けていった。
世界で変わったのは星ではなく、星を見る者のほうだった。




