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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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市場の日

 城の外に出たのは、この城に来て初めてのことだった。


 門をくぐった瞬間、風の匂いが変わった。城の中は石と木と花茶の匂いだったが、外は土と草と、遠くの森から流れてくる青い樹木の匂い。広い。天蓋のない空間に出ると、身体が一回り小さくなったような錯覚を覚えた。


「市場に行くのですが、聖女様もいらっしゃいませんか?」


 マリカの言葉に、リーリエは首を傾げた。市場。この城の近くに、町があるのか。


「外に出る理由がありません」


「気分転換です。ずっとお城の中では息が詰まるでしょう? 町はそう遠くありませんし」


「息は詰まっていません」


「でもお花の種が切れてしまって。聖女様にお選びいただければ」


 花の種。リーリエは庭の花壇を思い浮かべた。いくつかの株が咲き終わりに近づいている。新しい花を植えるなら、種を選ぶ必要がある——


「行ってこい」


 カインが背後から声をかけた。いつの間にか廊下に立っている。


「護衛はつける。何かあれば俺が動く」


「何かある前提ですか」


「ないに越したことはない。だが備えは要る」


「護衛つきの買い物とは大仰ですね」


「お前が大仰な存在だからだ」


 反論の余地がなかった。聖女は世界の結界を支える人柱だ。確かに大仰な存在ではある。


「……仕方ありませんね」


 こうしてリーリエは、マリカとリュカに連れられて城門を出た。カインは同行しなかった。「魔王が町に行くと騒ぎになる」とのことだ。代わりにヴェルナーが遠方から護衛についている。


 城から町までは馬車で半刻ほど。森を抜け、丘を越えると、石壁に囲まれた小さな町が見えた。


 魔王領の町。


 教会が語る「魔の領域」は、荒廃した土地に魔物が跋扈ばっこする地獄のような場所——のはずだった。


 リーリエの目に映ったのは、それとは全く違う光景だった。


 石畳の通りに露店が並び、人々が行き交っている。人間の商人もいれば、角のある魔族もいる。尖った耳の半霊族が果物を売り、太った獣人族がパン屋を営んでいる。子供たちが走り回り、犬が吠え、どこかの窓から歌が聞こえる。


 活気があった。


「マリカさん、今日は連れがいるんだね」


 八百屋の主人が気さくに声をかけた。人間の中年男性。マリカに親しげに笑いかけ、リーリエを見て少し驚いた顔をしたが、すぐに「お嬢さん、この辺は初めて?」と愛想よく話しかけてきた。


「……ええ」


「いいところだよ。住みやすい。魔王様のおかげで治安もいいしね」


 魔王のおかげ。リーリエは軽い衝撃を受けた。


 教会では、魔王は人類の敵だと教えられた。討伐されるべき災厄であり、その領域は人が住む場所ではないと。


 しかしこの町の人々は、魔王に感謝している。魔族と人間が共に暮らし、市場で物を売り買いしている。誰も恐れていない。


「……思っていたのと、違います」


 リーリエが呟いた。マリカが微笑んだ。


「教会が教えたことと、ですか?」


「ええ。ここは——教会が言うような場所ではありませんね」


「カイン様が守ってくださっている場所ですから」


 守っている。魔王が、この町を。人間も魔族も区別なく。


 教会が守っているのは「結界」だ。人間が住む領域を、聖女の命で維持している。しかしカインが守っているのは「人」だった。魔族も含めた、この町に住む人々そのもの。


 市場を歩いた。リュカが「お嬢、あれ美味いっすよ!」と干し果物を指差し、マリカが「この布、肌触りがいいですよ」と織物を見せる。リーリエは淡々と見て回ったが、教会にいた頃には触れたことのないものばかりだった。


 色とりどりの果物。手編みの籠。陶器の小物。木彫りの動物。


 そして——花の飾り。


 露店の隅に、小さな花の髪飾りが並んでいた。細い銀線に小さな白い花をあしらったもの。素朴だが繊細な作り。


 リーリエの足が止まった。


 手が伸びた——無意識に。指先が髪飾りに触れ、持ち上げた。軽い。銀線が光を反射して、きらりと光った。


 はっとした。


 自分が何をしているのか気づき、慌てて棚に戻そうとした。


 横から手が伸びて、代金を置いた。


「え——」


 カインだった。


 いないはずのカインが、いつの間にか隣に立っていた。黒い外套のフードを深く被り、顔を隠している。しかしリーリエにはわかった。背丈と、気配と、そして——


「何をしているのですか」


「お前が欲しそうだった」


「欲しくありません」


「なら捨てろ」


 カインが髪飾りをリーリエの手に押し付けた。小さな銀線の飾りが掌に収まる。温かい——カインの手の温度が移っているのだろう。


 捨てろ、と言われた。


 捨てればいい。要らないなら、棚に戻せばいい。


 リーリエは手を開いた。髪飾りが掌の上にある。白い花の飾り。庭に咲くエーデルフラウに似ている。


 手が——閉じた。


 握った。捨てなかった。


「……来ないと言っていたではありませんか」


「護衛だ。遠方から見ているだけのつもりだったが、ヴェルナーから報告が来た」


「何の報告ですか」


「お前が何かを見つけたと」


 リーリエは眉を僅かに寄せた。ヴェルナーの仕事が迅速すぎる。


 カインはフードの奥から、リーリエの手を見た。握られた髪飾り。捨てなかった飾り。


「帰るぞ」


「はい」


 帰り道、リーリエは髪飾りを握ったまま馬車に揺られた。リュカが「お嬢、可愛いの選んだっすね」とにやにやし、マリカが「似合いますよ、聖女様」と微笑んだ。


「つけません」


「もったいないっすよ」


「つけません」


 つけないけれど——捨てなかった。


 城に戻り、部屋に入り、机の上に髪飾りを置いた。


 小さな銀線の花が、窓からの光を受けて光っている。


 欲しいとは言っていない。手に取ったのは無意識だった。捨てなかったのは——


 わからない。


 死ぬつもりの人間が、物を持つ。この世界に自分の持ち物を増やす。それは——この世界に根を下ろすことに、似ている。


 リーリエは髪飾りから目を逸らし、窓の外を見た。


 逸らしたのに——視線は自然と、机の上に戻ってきた。


 銀線が窓からの光を受けて、小さな星のように輝いている。カインの手から渡された温もりが、まだ金属に残っているような気がした。気のせいだ。とっくに冷めている。けれど掌には、あの一瞬の温かさの記憶がある。


 死にたがりの少女の持ち物が——また一つ、増えた。


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